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谷間の百合

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十九日 その一  国民には最低限の文化的生活を送る権利がある。 

「われわれの福祉システムにただ乗りする者が、汗水垂らして働くアメリカ市民の負担を増やすことがあってはならない。」

これは大統領候補のトランプさんの発言ですが、この発言が日本に及ぼす影響は小さくないのではないでしょうか。
日本でも、生活保護受給者や福祉の対象になっている弱者への怒りを露骨に表す人が増えてきているからです。
政府が故意に国民の不満をそこに向けさせているせいもあると思います。
そして、政府がいちばんに目を付けるのが社会保障費をいかに削るかということです。
防衛費は5兆円になりました。
思いやり予算も増額になりました。
かれらは、それらは国にとって最も必要な予算だが社会保障費は無駄だと考えているのです。
弱者は社会のお荷物だと思っているのです。

以下に、きのうの「ryuubufanのジオログ」から後半部分を転載します。

「富める者も貧しい者も国民という共通項を持つ」と。
たとえば、親は障害を持って生まれた子どもも他の子どもと同じように、あるいはそれ以上に愛情を注ぎます。
本来国もそういうものではありませんか。
(今は皇室だけがそれを体現して常に弱者や障害者や被災者に寄り添っておられます。)

同じ国民であり、国民は最低限の文化的生活を送る権利があると憲法に謳われているのです。
ベーシックインカムとはそれを実行するだけのことです。


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社会福祉という発想ではなく、人間の尊厳を根源的レベルで保証する為にベーシックインカムを実行する。財源は十分過ぎるほどある。何故なら先進国家は巨大な生産力を持っているからである。国民に生活最低限レベルの金を無条件に与える位の事は簡単である。GDPの中から軍事費が捻り出せるように、ベーシックインカム費も出せるのである。初めから根本的政策費として別枠に取っておく。そもそもGDPは国民の生産力の総計であるから、国民自身が自らの生産物を一定量受け取るのは当たり前の事である。どんな国民も国民である。富める者も貧しい者も国民という共通項を持つ。この共通項部分にベーシックインカム費が充てられる。国民である事は特別な事であり、それはベーシックインカム費によって保証される。保証がなければ言葉だけという事になる。日本国憲法でも国民は最低限の文化的生活を送る権利があると謳っている。それはベーシックインカムによって国家が保証するのが最も納得できる。水道代を払わないと水道が止められるんじゃ最低限の文化的生活は送れないではないか。個人の収入を個人の働きだけに任せていては国民全てが文化的最低限の生活を送れなくなる。日本国憲法はベーシックインカムを当然としていたのである。流石は不戦の誓いを立てた日本国憲法である。この素晴らしい憲法を殺そうとしているのが戦争法の安倍政権である。本来すべき事をせず、してはならない事をやるのが野蛮国家アメリカの傀儡政権である。ベーシックインカムから最も遠いのが日本の戦争法安倍政権である。

先進国家レベルの巨大生産力があれば、ベーシックインカムの為の予算は当たり前に確保できる。民主主義は本来の姿を現さなくてはならない。



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by michi-no-yuri | 2015-12-19 12:42 | Comments(0)

サムライの血は絶えてしまったのか。

「ネットゲリラ」さんが、武士はいまでいう公務員のことで、「公務員は責任の所在をはっきりさせる必要があるので、本人確認のために、苗字も必要になるし、切腹という作法も必要になる。」と書いておられます。

しかるに、戦後教育では「武士の責任の自覚」という視点がスッポリ抜け落ち、武士は切り捨て御免が許されていたという間違った歴史だけを子どもに教えてきたのです。

またコメント欄の次のようなコメントにわたしは目を引かれました。

「田舎に行けば、代々小作人の家柄でも必ず名字と屋号は持っています。
武士とはもともと独立自営武装農民です。徳川家や大名と専業的に軍事力を提供する道を選んだのが武士。年貢を提供する道を選んだのが百姓。どちらも古墳時代までさかのぼる各地の開墾団の血族集団の末裔です。

名字帯刀を許されていたのは、あくまで、「公式の場で使う権利を主として武家に限定していただけです。」
「明治以前の農民に名字がなかったというのはヨタ話です。」


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わたしはこれを読んでとても納得できるものがありました。
たとえば、百姓一揆を起こす原動力になったのも、かれらがもともとは武装集団だったとと考えれば分かり易いからです。

最近も、収穫量の半分を年貢にとられたということを表わす「5公5民」もウソだったことを知りました。
左翼史観の捏造です。
戦後の歴史は左翼が独占していたのか、江戸時代は封建社会で身分制が厳しく、人々は圧政に苦しんだというというようなことばかりが教科書で強調されていました。
だとするならば、文学や美術工芸が絢爛と花開いた事実の説明がつきません。
芝居や行楽を愉しんだ町民の姿を説明できません。


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話は変わりますが、わたしの従姉妹は、さる藩の家臣の末裔です。
明治になって没落したそうですが、従姉妹の父親は官僚になったものの40を目前に、4人の子どもを残して亡くなりました。
その後の苦労は並大抵のものではなかったのですがそれでも従姉妹は世間的には人生の成功者になりました。
わたしたちとは頭のデキが違いました。
姉は武士は頭がいいのだと言いましたが、違うのは頭のデキだけではありません。
内に「凛」としたものを窺わせるのです。
わたしは、それが「武士の覚悟」の血なのではないかと思いました。

いまの政治家や上級国民にサムライの末裔はいないのか「覚悟」や「責任」は微塵も感じられません。
わたしは、ほんとうのサムライ(身分ではなく)はやはり市井に埋もれて生き続けているのだと信じています。


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by michi-no-yuri | 2015-12-18 12:54 | Comments(0)

十七日 その二  憲法の精神は万国共通であるべき。

集団的自衛権を合憲だとした3人の憲法学者の一人西修さんが、きょうの「正論」に「コピペ憲法を放置していいか」を書いておられます。

日本国憲法前文がアメリカ合衆国憲法前文、テヘラン宣言、大西洋憲章などのコピペだと言われているのですが、西さんは憲法をどういうものだと思っておられるのでしょうか。
まったく同一だとして抽出しておられるのが「専制と隷従、圧迫と偏狭」「恐怖と欠乏から」などの文言なのですが、人類の理念、願いは同じものであることが望ましいと言うよりそうでなくてはいけないのではないでしょうか。

国民のオリジナリティーとかアイデンティティというものが欠けていると言われるのですが、理念にオリジナリティの入り込む余地はありません。

よく価値観の多様性ということが言われてきて、わたしも安易に使ってきたのですが、、福田恒存がそれを批判して、価値は一つだと言ったのを知って、わたしは顔から火が出るような思いをしました。
価値を理念とか真実という言葉に置き換えたらよく分かります。
人々が多様性といっているのは考え方や好き嫌いのことなのです。

憲法の理念は世界の国が同じであるべきなのです。
だから、話し合いが可能なのです。
もし、各国が価値観の違いなどと言って自分たちの価値観を主張しだしたら収拾がつかなくなります。
西さんが日本の独自性ということで、何をイメージしておられるかは大体想像できます。
戦前の価値観をトリモドスことでしょう。


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by michi-no-yuri | 2015-12-17 15:08 | Comments(0)

十七日 その一  こだわらない。

きのう、テレビは一日夫婦別姓の裁判について費やされていたようですが、もともと関心がないわたしには問題点がどこにあるのか分かりませんでした。
名前(旧姓)はいのちだと言っていた人がいましたが、名前を記号くらいに思っているわたしには理解できませんでした。
旧姓に拘るというのも、家父長制の肯定のように思いました。

明治以前、貴族や武士以外の人間は、苗字がないまま名もなき衆生として死んでいったことを思うと、わたしもそういう人間の一人として死にたいと思うのです。
つる、かめ とらといった名前で一生を終えた女性と同じでなにも不足はありません。

女性には、やはり夫の家の墓に入ることに抵抗がある人が多いです。
わたしも以前はそうでしたが、ある時期からどうでもよくなりました。
たとえ悪縁だったとしても夫婦になったのには縁があったということです。
一人の人間が持つ「縁」の数はどれくらいになるだろうと想像したとき
どうでもよくなりました。
(また、輪廻転生に確信を持てたことも大きいと思います。)

夫がわたしのことを「大雑把な女」だということが、いい意味?でこういうところに表れるのだろうと思いますが、一日一日を気分よく過ごしたいわたしにとってはできるだけ余計なことは考えたくありません。
(それでなくても考えることがたくさんあるのに。)

苗字なんかどうでもいいと言えば怒られそうですが、でもそうなのです。
名前に愛情がないわけではありません。
でも、わたしの中ではすでに「谷間の百合」が本名になっています。

苗字に拘るのは家父長制の残滓ではないだろうかと思えるのですが、、、どうでしょう。


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by michi-no-yuri | 2015-12-17 11:10 | Comments(2)

十六日 その二  「戦略特区」で日本は無くなる。

きのうの国家戦略特区の諮問会議で、総理は今後も積極的に「戦略特区」を増やすとともに、規制緩和とも取り組んでいくと言いました。
政府がドリルを使っても壊したい規制とは、既得権益者の反対のことらしい。
しかし、壊したところで、小さな既得権益が巨大な悪の権益者のものに代わるだけのことです。
既得権益者を悪に仕立てることでそのことを誤魔化しているのです。

しかし、その岩盤規制の岩盤とは国民のいのちを守る岩盤(最後のセーフティネット)でもあるのです。
だから、岩盤を破砕するということは、国民のいのちの保証がなくなるということです。
総理は自分のドリルで壊せないものはないと豪語していましたが、何を言っているのか分かっているのでしょうか。


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モザンビークの農民代表が来日し、日本政府並びにJICAが推進する大型農業開発ODA「プロサバンナ」事業の即時停止を公開書簡として総理に手渡したということです。
5月末の来日時にはテレビの取材を受けているのを見て記事にしましたが、書簡のことは知りませんでした。
ODAはほんとうの援助になっていなかったのです。
「本当に必要な支援とはどんなものか」という質問にかれらは明快な答えを持っていたということですが、そのために遠路はるばる来ているのですから愚問もいいとこです。
かれらはこう訴えたのです。

「モザンビークの小規模農業にはインフラが足りていない。だが、今必要なのは、自分たちの食料を奪い、海外に作物を輸出するための港や幹線道路の整備改修じゃない。必要なのは、小さな村と村の市場をつなぐ道路や、持続可能な形で環境負荷の低い農業を行うための、小規模な灌漑設備だ。

種子についても、毎年種を買うことを強いられる遺伝子組み換え種子ではなく、小規模農家自身が選び守ってきた伝統品種や固定種の優良な種子をきちんと保存し、共有するためのシステムだ。

技術指導も必要には違いない。しかし、それは土壌を急速に劣化させる大規模な単一栽培を進めるための技術指導ではなく、自分たちが食べる作物をいかに環境負荷の低い持続可能な形で生産し、収量や品質を改善できるかという指導だ。」



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かれらはODAが決して自分たちの生活向上や幸せにならないことを本能的に知ったのです。
翻って、わが国の、政府が進める「農業特区」を見るに、農家のひとにはそれほどの危機感、抵抗感が無いようです。
その違いは、土地に対する思いの差なのかもしれません。
かれらにとって土地がいのちそのものであるのに引き換え日本の農民にはもう土地はそれほど命に代えても守るものではなくなっているということではないでしょうか。

日本政府のしていることは、かっての欧米列強の植民地政策と変わりません。
収奪だけが目的です。
大規模な単一栽培で急速に土壌が劣化すれば、また次の土地へ移り同じことを繰り返すのです。
日本には休耕田がたくさんあるのに、遠いアフリカまで侵出して大規模農業を展開するのは、一にも二にも「コスト」なのでしょう。
しかし、わたしは企業の「コスト至上主義」が最後には企業のの首を絞めるのではないかと思います。
人間はものではないからです。

さきほど、世界農業遺産に日本の3地域が選ばれたとニュースで言っていました。
何が目的だろう?と思います。
農業を大事にしたいのなら、遺伝子組み換え種子や種子を毎年買わすようにした仕組みをなんとかしろ!と言いたい。


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by michi-no-yuri | 2015-12-16 13:22 | Comments(0)

十六日 その一  「ベーシックインカムの本質は人間の尊厳の確立。」(ryuubufanのジオログ)

わたしはベーシックインカムについて勉強したことがなかったのですが、「ryuubufanのジオログ」というブログに、4日連続でそれについて書かれていたのを読んで、大いに啓発されました。
しかし、まだ理解し馴染むところまでにはなりません。
(「徽宗皇帝のブログ」などでも何度か読んでいたにもかかわらず。)
それを待っていてはいつのことになるか分かりませんのでとりあえずきのうのジオログの記事を転載します。

息子が、何もしなくても最低の生活を保障してくれる制度があればいいなと言ったことがありました。
何もせずにボーッと過ごしたり、人との会話を楽しんだり、本を読んだり、好きなことに没頭できるような自由に使える時間が欲しいのです。
しかし、今それはとても「贅沢」な望みなのですが「働かざる者食うべからず」ということですっかり奴隷根性が身についてしまった現代人は、あまりそういう種類の「贅沢」は望まないかもしれません。
子どものときから勉強、勉強できているので、そういう贅沢な時間に戸惑うかもしれません。
思えば、奴隷になるために勉強してきたようなものですね。
 
「働かざる者食うべからずは、人間への冒涜である。」

と書いておられます。

わたしはそういう思想の持ち主だった姉たちの批判的な視線に反論も出来ずにきたのですが、「そうなんだ、人は食べるためだけに生きているのではない。」ということにあらためて自信を深めることができました。

しかし、曽野綾子さんなどはトンデモナイ!と柳眉を逆立てられるでしょうね。
きょうのコラムでは珍しく企業の道義的責任を問うておられましたが、決して政権の道義的責任には触れられません。


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「ベーシックインカムの本質は人間の尊厳の確立」

人間の尊厳などと言うと大袈裟で青臭い感じであるが、それはこれまでの人類の歴史が野蛮だったからだろう。人類の歴史の底流には野蛮があった。互いに殺し合いをしなければ歴史は作れなかった。平和な時でも人間が尊厳を与えられていた訳じゃない。今の日本を見れば答えは出ている。弱肉強食の野蛮な動物世界も文明の人間世界も野蛮さに於いて本質的に変わりはなかった。一体何の為の文明なのか。動物世界の野蛮さと変わりのない人間が万物の霊長などと自惚れておれる状況じゃない。ベーシックインカムという考え方が出てきた事は、人間が自らの尊厳を意識した事の表れとして大きな意味がある。

ベーシックインカムとは弱者救済の為にあるのではない。この文明国家から食べ物にも困る貧困者を出さない事は、文明国家の基本であり人間の尊厳に対する保証である。働かざる者食うべからずは、人間への冒涜である。動物は生きる為に食うし、食う為に動く。動物とは食う物である。人間も動物だが、動物を超える存在である。人間は食う為に生きている物ではない。人間が働くのは文明を築く為である。難しい行為である。だから簡単に働ける訳じゃない。働かない事は怠惰を意味しない。また怠惰自体悪い事と決めつけられない。人間は食う為だけに生きている訳ではないから、一見怠惰な生活に見える時を過ごす事もある。精神的に複雑な人間は怠惰にさえ意味を見つける事がある。人間の精神の複雑さは、人間の尊厳の根拠である。働こうと働くまいと人間の尊厳に変化はない。働いているからと言って尊厳が増幅する訳じゃない。人間はその存在自体に尊厳の根拠がある。そのような存在は存在が保証されなければならない。人類の文明とは人間の尊厳の為にあると考えるべきだろう。ただ良い生活をする為にあるのではないだろう。だから文明は人間の尊厳に確実な保証を与えなくてはならない。ベーシックインカムは人類文明の在り方に関わる問題である。文明国家は弱者をそのままに捨て置けない。人間の尊厳が傷つく事を放置しない。

ベーシックインカムは弱者の為にあるのではなく、人間の尊厳の為にある。人間の存在自体がベーシックインカムに理由を与える。ベーシックインカムが当たり前となった文明国家では犯罪は激減する。国民の政治意識も格段に高まる。野蛮な政治はもうあり得なくなる。ベーシックインカムによって自公政治など消滅する。米の野蛮体制も崩壊に追い込まれる。人類文明は遂に最終ゴール地点に達する。最早人類は野蛮を超える。民主主義の理想が実現する。



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by michi-no-yuri | 2015-12-16 10:53 | Comments(4)

戦前、巷には「社会改革案」が溢れかえっていた。

新しく「正論」の執筆陣に加わった先崎彰容という人が、「精神の荒廃を生む『微笑』の喪失」という一文を寄稿しておられます。

亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」なる一冊を携えて奈良の西ノ京を散策したときに感じた、失われつつある微笑と寛容の精神について書いておられるのですが、それとは別にわたしが注目したのが次のくだりです。

「世界恐慌後のわが国には、書店であれ新聞であれ社会改革案に溢れかえっており、マルクス主義も処方箋の一つだった。
官僚は官僚なりに、皇道派は彼らなりの正義感から、マルクス主義はまた別の角度によって近代日本社会を改革しようとしていた。」


亀井勝一郎がマルクス主義運動に挫折し、「軍靴の音鳴り響く昭和17年を中心に、精力的に古都古寺を訪れていた。」ということですから戦前のある時期から開戦までの期間、「社会改革案」が社会に溢れていたということです。
(そういう中でマルキストたちは弾圧されていったということでしょうか。)

いま、戦前の空気と酷似していると言われていますが、大きな違いが、社会を改革しようという熱気がどこにも見られないことです。
資本主義が本心をむき出しにし、コスト至上主義に走った結果、国民は心身ともに疲弊してしまったのも原因の一つでしょうか。
こういう社会でノーベル賞受賞者が出たのは奇跡に近いのですが、しかし、もう、水木しげるさんや野坂昭如さんのような人間は当分現れないでしょうね。


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きのう、総理は都内で講演し、観光客3000万人が次の目標だと言ったそうです。
これが安倍政権の政策の目玉だとしたら、あまりにも寒々しく、哀れです。
どうぞ、日本に来てお金をたくさん落としていってくださいと。
こういうのを乞食根性というのです。
それを得々と自分の手柄のように話す総理の精神の卑しさ、、

観光客に頼る国に未来はありません。

先崎さんは
坂口安吾がこうした光景(文化遺産)が灰塵に帰しても一向にかまわない、日本人の生活さえ健康であるならばと言っていることは、敬愛して止まない坂口安吾だがこの意見には反対だと言って次のように理由を書いておられます。

「健全な精神とは、過去から積み上げられてきたものを継承しようとする静かな思いに宿るのであってーー」

これがまさに天皇のレーゾンデートルです。
日本人が忘れ、捨てたものを、天皇だけが静かに継承しておられるのです。
微笑も寛容のこころも。

(亀井勝一郎とか坂口安吾だとか気安く書いていますが、わたしは本の一冊も読んだことはありません。)


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by michi-no-yuri | 2015-12-15 11:11 | Comments(0)

掃き溜めに鶴。

「国民連合政権」はどうなっているのだろう。
小沢さんは年内に纏めたいと言っておられましたが、どうも無理そうです。
岡田さん、松野さんがふらふらして腰が定まらないのは、水面下で政権からのモーレツな引き止め工作があるからかもしれません。

こないだ野党5党が一堂に会して共闘すると宣言したのではなかったのですか。
わたしはハナから松野という人を信用していませんでしたから、いまになって「共産党抜きで」とか「おおさか維新も排除しない」とか「橋下さんは政治家として大好き」だとかトンデモナイことを言っていても驚きません。
多分、おおさか維新が安倍政権寄りの姿勢を鮮明にしたことでぐらついているのでしょう。
自分もそこに乗っかりたいのです。
そもそも維新に行ったのだって、橋下徹の人気と勢いに便乗しようという浅く軽い動機だったに違いないのです。

もう、岡田民主、松野維新抜きで発足させてください。
「国民連合政権」の旗を高々と掲げてください。
国民連合ということは国民が主体だと思っていいですよね。
実にいいネーミングでなんとなく希望と闘志が湧いてくるようではありませんか。

橋下徹が断固憲法改正をなし遂げなければならないと言っています。
そのために、かれは総理の右腕になるでしょう。
日本人でないものたちによって日本はすっかり別の国になりました。
粗暴で下品な国になりました。
(たとえ改憲しても、すぐに覆してやる!)


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山本太郎さんが国会で福島の小児甲状腺がんについて質問されました。
「酔生夢人」さんが指摘しておられるように、質問の白眉は次のくだりです。

「現在、福島県で多発している小児甲状腺がんが、もし、もともと潜在的に我が国の子どもたちが持っているものとするならば、全国の子どもたちに、福島県の子どもたと同様の検査、調査が必要じゃないですか?」

日本全体が「掃き溜め」のようになったときに、山本太郎さんと翁長知事(山中光茂元松坂市長など他にもおられます。)という稀有な人間が登場したのは、天の配剤意外に考えられないくらいです。
「掃き溜めに鶴」の鶴とは美しい女性を指すことがほとんだと思いますが、わたしはこの人たちを見て、やはり、掃き溜めに降り立った鶴だと思いました。
「掃き溜め」にならないと鶴は舞い降りてこなかったということでしょうか。


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by michi-no-yuri | 2015-12-14 11:37 | Comments(0)

十三日 その二  乞食がいない理由。

曽野綾子さんがコラム「小さな親切、大きなお世話」で、日本は世界一格差の少ない乞食もいない国だと書いておられます。
そして、必ずそんなに日本が貧富のある国だと思うのなら、どうぞほかの「いい国」へ移住してくださいと言われるのです。
日本に不満があるのならどっか余所へ行けと。
そんなことあなたに言われる筋合いはありません。
日本人がなぜヨソの国へ行かなければいけないのですか。

曽野さんのイメージにある乞食とは、橋の下に住んだり、道行くひとにお金を恵んでもらったりする人間なのです。
それが想像力の限界なのでしょう。

一億総中流意識の社会が続いたあと、ある日突然ドロップアウトして家もお金もなくなったからといって乞食はできないのです。
ホームレスになって必死に生きていくしかないのです。
曽野さんのイメージする乞食がいないとはそういうことです。
(いま、ホームレスの姿が掻き消えているそうです。なんでもフクシマで働いているという噂です。)


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曽野さんの友人が、外国から帰ってきて、最近の日本人は酷い精神状態だ、魂の自立と自律を失っていると言ったそうです。
曽野さん、あなたにはその原因が思い浮かびませんか。
下着泥棒や男娼を議員宿舎に呼び入れている議員が辞任もせず、罷免もされない政権の精神状態には何ら問題はないと思われますか。


「世界中が、民主主義の原則を忘れて人道主義者の評判ばかりほしがる病気に感染している。
人道主義というものは、そのために長時間の労働か多額の私財か、ときには命までも差し出す覚悟を持つことだという。
そんなに口先だけで人道主義を唱える薄汚さはすぐばれるものだ。」


曽野さんのいわれる民主主義の原則をぜひお聞きしたい。
そして、いまの政権が民主主義の名に値すると思われるのか答えてほしい。

わたしは人道主義をそのように思ったことはありません。
そんなことができる人は世界に何人もいません。
それに、死ぬような長時間労働を課せられている人間が、人道主義のために長時間働くことなど不可能なのです。

わたしは、コラムのタイトルである「小さな親切」も立派なヒューマニズムだと思います。
なによりも基本的人権を守ることだと思います。


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by michi-no-yuri | 2015-12-13 12:02 | Comments(2)

十三日 その一  総理は企業のセールスマン。

産経は総理とモディ首相が並んで談笑している写真を載せましたが、わたしがニュース映像で見て感じたモディ首相の表情はテンションが低く友好的ではありませんでした。

問題が山積している日本を放っておいても行くような用事ではありませんでした。
高速鉄道に1.4兆円の円借款供与と原発の輸出。
おそらくこれも企業の要求だったのでしょう。
つまり、総理は企業のためのセールスマンをやっているのです。
JR東海の葛西敬之名誉会長が総理の後見人だといわれていることからも分かり易い話です。

そして、国民の中のB層は、飛行機のタラップをのぼったり降りたりの総理の姿だけをみて、「なかなかよくやっている」と思うのです。
総理もまたそういうB層を相手に政治をしているのです。
ということは総理もB層だということです。

円借款とはもちろん貸付けなのですが、2006年に行われた円借款の平均金利は1.3%、平均返済期限は33年8ヵ月だということで、また、返済していない国も多数あって、その総額は2兆34億円にのぼるそうです。

きのうは、NHKでまた視聴者参加で「介護危機」を取り上げていましたが、口止めがされていたのか、あるいは出演者がそれを感じて遠慮したのか政権批判の声は一つもなかったように思います。
国内では、消費を外国人観光客に頼り、社会保障費を削ったり、意味のない軽減税率で綱引きを演じたりと、爪に灯をともすようなヤリクリをする一方で外には派手にお金をばら撒くのです。
そして、総理は国民から政権批判が起きないように、マスコミを完全に掌握しました。

総理が「自分とモディ首相でなければ達成できなかった成果だ。」と自画自賛すれば、モディ首相は「安倍首相の強い指導力に敬意を表する。」と答えたと、その部分だけを産経は記事にしています。
恥かしくないのでしょうか。

山本太郎さんがいつも言われる、企業のための政治だということがほんとうによく分かる総理のインド訪問でした。


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by michi-no-yuri | 2015-12-13 10:50 | Comments(0)