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谷間の百合

taninoyuri.exblog.jp

2014年 08月 19日 ( 1 )

鳥羽一郎は男でござる。

わたしほど音楽を聴かない人間も珍しいのではないかと思います。

もちろん、好きな曲や歌は数限りなくあります。

しかし、聴きたいという欲求がないのです。

そんな暇がないと言えば、いかにも何かをしているように思われるかもしれませんが、要するに、こころに音楽を受け入れる隙間がないのです。

鳥羽一郎の歌を聴くようになったのは、2年ほど前に、かれがふるさとを訪ねる番組を見てからです。

あとで気がついたのですが、その前年、前々年にドライブの途中車を止めて休憩したのが、かれのふるさとの石鏡というところでした。


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先日、若手のお笑い芸人が、鳥羽一郎のコンサートにいき、とくに思い入れのある「海の匂いのお母さん」を聴いて感動しようと待ち構えていたそうなのです。

ところが、歌う前に鳥羽一郎が発した一言で感動どころか裏切られた気持ちがしたというのです。

その一言とは
「死んだババアの歌をうたいます」だったそうです。

わたしはこのエピソードをきいて、あらためて鳥羽一郎に惚れ直しましたが、偽善が当たり前になった若いひとには通じなかったのでしょう。

その少し前に、お母さんが亡くなられた直後だったのでしょうか、兄弟で歌番組に出てこの歌をうたったのですが、一番をうたう弟の山川豊が途中で歌えなくなってしまったのです。

そのとき、鳥羽一郎は予想していたのか、すぐにその後を引き継いで歌い切りました。

弟は泣いても、長男の自分は泣けないのです。

男は泣いてはいけないのです。


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ところが、このごろテレビでは、男がわざとのように涙が流れるに任せ、自分はこのようにこころの優しいいい人間だということをアピールするような風潮がみられるようになりました。

なんとさもしい根性かと嘆かずにはいられません。

そういえば、涙を必死にこらえるようなしぐさがあまり見られなくなりました。

規制だらけの芸能界、テレビ界では、自然に自己規制、自己検閲が身についてしまい、その結果、見るにたえない偽善が蔓延るようになりました。

しかし、鳥羽一郎にはそれができないのです。

言えないことは言わないだけです。

それは偽善ではありません。

世間にはまだたくさん居るのでしょうが、芸能界では鳥羽一郎が絶滅危惧種の最後の男になるのかもしれません。

わたしも言い訳ばかりしてきた自分の人生に嫌気が指し、これからは言い訳をしない男のような人間になるんだと決心したばかりでした。

そのお手本が鳥羽一郎なのです。

「死んだババアのうた」

いいではありませんか。

それが男鳥羽一郎の悲しみの表現ではありませんか。

男はこころで泣くものなのです。


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わたしは親を美化して語る人があまり好きではありません。

その点、わたしは恵まれています。

そんな子どもはいないからです。

先日も、中学生のとき わたしが前の晩のおでんの残りをお弁当に入れたことを言われました。

友だちに笑われたと。

何度も言われるので、わたしももう「それの何が悪い」と開き直っています。

わたしが死んだ後も、兄妹たちで、お母さんはおでんの残りをお弁当に入れたと言っては笑うことでしょう。

いくらでも笑ってくれ、、

       いまはないわたしの勉強したことのない勉強机
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by michi-no-yuri | 2014-08-19 11:42 | Comments(1)