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谷間の百合

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2013年 12月 17日 ( 1 )

サムライさん、大丈夫ですか。

飯山さんをいくら批判してもいまのところこころが痛むことはありませんが、サムライさんの場合はそうならないのはひろみさんのことがあるからだと思います。
(ひろみさん、名前を出してごめんなさい)

ひろみさんのこころの痛みが投影されるからだと思います。

ひろみさんがサムライさんや、飯山さんを庇いたくなる気持ちが分かるからです。

よく知っているわけではありませんが、遠い異国の地にあってサムライさんとのメールのやり取りがどんなに慰め励みになり、さらに、知識欲や向上心を満足させてくれるものであったかということ、そして、それはもうひろみさんの人生や生活の一部になっていたのではないかと想像するからです。

コメントの返事は要らないと言われたのも、サムライさんへの批判の文言がネット上で公表されるのが耐えられなかったのではないかと思いました。


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人は自分で人生を選択しているのではなく、「縁」という必然の力によって選択しているのだと思います。

すべては「縁」だと思います。

そして、その縁はカルマによってつくられているということ。

普通、縁といえばいいイメージを持ちがちですが、ほとんどは悪縁なのだとどこかで読んだことあります。

それが、現世が修行の場だと言われる所以かもしれません。

幸も不幸もだれのせいでもない、自分のカルマの投影であり現象化だということです。


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しかし、わたしはサムライさんは飯山さんより悪質というか罪が深いと思います。

私信を公開したばかりか、それを脅し、ゆすりの材料にされていることです。

私信の公開が普通に行われるようになったら、社会のタガが外れ、無法で、無秩序な世の中になります。

相変わらず、猪瀬さんを公開の場でさらして検事の真似事をしていますが、子どものいじめとどこが違うのでしょう。

子どもも見ているのにと気が気ではありません。

こういうことはほんとうに怖いことなのです。


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きのうのサムライさんのコメントを見ていて気がついたのは「諭す(さとす)」という言葉が頻出することです。

それで思い出したのです。

わたしが最初から忌避感を持ったのは、この「諭す」「教えてあげる」という感覚だったということが。

いまどき、人に(しかも同年輩の人間)に向かって「諭す」と言える感覚が凄いです。


つむじ風様に宛ててこう書かれています。

「飯山さんや皆さんが仰せのように、飄平殿は既に逝ってしまっているので、馬の耳に念仏といったところでしょうか。
かれはもう目が覚めることはないと思いますが、これからも人としての道を外れた行いをするたびに“優しく”諭してやるつもりです(笑)」

これを読んで、その異常性を感じない人がいるでしょうか。

ところが、わたしのことは「諭す必要はないでしょう」ということです。

つむじ風様はまだ矯正可能だけど、わたしはもう手の施しようがないということらしいです。

わたしのことはよく分かっておられます。

わたしはこの「諭す」という言葉を使うサムライさんが恐ろしくなりました。

ぞっとしました。

恐い人だと思いました。

(コメントをくださった人が言っておられた怖さがこのことだったことに気がつきました。)

それでも、わたしはこう言いたくなるのです。

「サムライさん大丈夫ですか。」


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by michi-no-yuri | 2013-12-17 14:16 | Comments(0)