藤井聡太七段の着物姿、初々しいだけでなくそれなりに着こなしていて感心しました。
わたしははるかむかしになりますが、結婚した当初盛夏を除いてほとんど着物で通していました。
子育ての一番忙しいときでした。
いま、とっくにそういう忙しさから解放されているのに、着物を着る気になれないのは気持ちにゆとりがないからだと思います。
先日もチラッと書いたことですが、世の中が急速に機械化、電子化してその分余裕が生まれたはずなのに、逆に忙しくなっているとは思いませんか。
機械化、電子化から生まれた時間的な余裕はなぜか文化的なものには向かわず、奴隷化に向かっているように感じられてなりません。
きのうの「ネットゲリラ」の「メビウス」という人のコメントに、わたしの疑問と同じ趣旨の投稿があり、それを全文転載しようと何度も試みるのですが、文章が重複してしまいます。
なのでコメントから適当に抜粋して記事にします。
コメントでは印刷を例にとって説明されています。
コンピューター化によって八つの工程が二つになったと。
それで世の中、確かに効率よく合理的でスピーディになったけど「その分、モノのディティールとか手触りとか風合いといった、人間の生の感覚に近いものが喪失したような気がします。」と書いています。
神は細部に宿ると言われますが、その細部が効率化によって消滅してしまったのです。
細部に宿っていた「人間の生の感覚」が失われてしまったのです。
またこうも言っています。
「不要悪として煙草が排斥されるようになったころから、人々に余裕がなくなり、懐も淋しくなってきたように感じます。
無駄で無用で時には害悪になるようなものが、少々混じっていないと社会は面白くありません。」
社会が面白くなくなるというレベルではないと思います。
無駄で無用なものが即ち文化というものだからです。
合理化、効率化の果てにあるのが、人間の奴隷化、そして淘汰ということかもしれません。
これに拍車をかけたのが、観光客の来襲です。
観光客という非日常の生きものが日本の日常を破壊しました。
そして、日本の日常の細部に宿っていた神々が姿を消しました。
✕