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谷間の百合

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月見草として生きるということ。

野村監督が亡くなりました。(やはり、監督という呼称がいちばんいい)
わたしは思い入れが深くて、訃報を知ったからとあらてめて思うこともありません。
あれほど会いたかった沙知代さんのところに行けてよかったですねと、ファンの一人としてはそれを見届けてほっとしたような気持ちでいます。
特筆すべきは、嘘のない人だったということ。
王さんばっかりオール.ジャパンの監督に選ばれるとぼやいていた野村さんが印象に残っていますが、無理ですよ。
お世辞も言えず、忖度もできず、人と合わせることもできないような人間には無理ですよ。
王さんは、国や皇室の行事に、スポーツ界を超えて代表的日本人か人格者の枠で選ばれるまでになっていますが、ああ見えて世渡りは上手なのだと思います。
選ばれたり出世する人はほとんどみんなそうなのですから、野村さんには無理ですよ。
所詮は「月見草」なのです。
お世辞も言えず、忖度もできず、人に合わせることもせず、といって逆らったり、自己主張することもなく野村さんんはいつも自分自身であったということが言えないでしょうか。
人間は一人では生きていけないという真実は別にして、野村さんはやはり一人で生きたのだと思います。
野村さんは鈍感が「悪」だと言いました。
自分が嘘をついていることも分からない悪の権化のような鈍感な人間が日本の総理大臣です。


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きのう、NHKでカズオ.イシグロさん原作の「浮世の画家」というドラマをやっていました。
バタバタしていて落ち着いて見られなかったのですが、最初の方で「わたしは、一度も自分の社会的地位を意識したことはなかった」というセリフが少し間をおいて二度出てきました。
わたしは、これは作者自身のモノローグなのだと思いました。
そして、気が付いたのが、これが野村さんの人生だったのではないかということでした。
その仕事を愛し、その仕事に打ち込んでいる人に、社会的地位の意識などという夾雑物が入り込むスキがあるとは思えません。
上級国民と言われる人間は、少しでもいい社会的地位を得ようと多くを犠牲にして刻苦勉励します。
そして、その甲斐あっていい地位に就いたときは、払った犠牲を取り戻すべく社会的地位を見せびらかさずにはいられなくなるのかもしれません。
仕事よりもそのほうの意識が強いような人間ばかりで世の中が良くなるはずがありません。
野村さんの生き方は真逆でした。
顔はあんなだし、声もダミ声でしたが、その精神、魂に濁りはありませんでした。
悲しいまでに澄んでいました。
野村さんを想うと、ときに胸が熱くなり、ときに涙を流すのは、その嘘のない一途な生き方にこちらの精神が耐えられなくなるからではないかと思います。
嘘のない人生を生きた人間は野村さんを最後にもう二度と表れないような気がします。


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by michi-no-yuri | 2020-02-12 07:15 | Comments(0)
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