「酔生夢人のブログ」に、「動物が悩みを持たない理由」という文章が転載されていました。
著者は、ある猫の気持ちになり切ったツイートを「動物の心理が自分には分かるという非常に図々しいと言うか、僭越そのものの思想である。」と書いているのは感覚として分からないではありませんが、著者自身の「動物は死を知らない」という思想もわたしはそれ以上に僭越だと思います。
僭越と言うより間違いです。
あるところで、ある動物の特性を説明するのに、動物に意識があればのはなしだと断っているのをみてわたしは驚きました。
意識がなければ生きてはいません。
生きているということは意識があるということです。
「私の考えでは、動物に死の概念ない」ということですが、
「私の考え」ということですから、個人の考えをムキになって否定することもないのですが、「考え」は頭のなかだけではなくよく観察してから言ってほしいと思いました。
人間が死を恐れるように動物も死を恐れます。
本能的に恐れます。
それとも、人間が死を恐れるのは高尚で哲学的だとでも思うのでしょうか。
よく、動物の行動を見てまるで人間みたいだと言いますが当たり前です。
動物も長い転生の中で人間だったことがあるからです。
お釈迦さまの転生談には、魚や兎だった過去生の話があります。
わたしは信じていますがほとんどの人は信じないでしょうね。
だからこれ以上は書きません。
以下に、主観をまじえずできるだけ感傷的にならずにわたしの見たことだけを書きたいと思いますが、動物愛護のことになるとセンチメンタルだと受け取られるのは非常に心外です。
そのとき、わが家には犬が2匹いたのですが、一匹が死の床にあったときの話です。
同じ部屋にいたのですが、元気な方の犬は離れたところで背中を向けて寝ていていたのですが、その背中が悲しみと不安を物語っていたと言えば主観になるでしょうか。
死にそうな方が寝返りをうったり、小さく呻いたりすると、ぴくっとして、みたこともないような苦痛の表情で一瞬振り返るのです。
焼き場では最後のお別れをさせようとしても、頑強に拒絶しました。
別の犬ですが、死んでからもう15年ほどになりますが、その犬が最後にとった行動を思い出すといまでもドッと涙が噴き出します。
庭に降りる3段の階段を何とか降りたかれは、同じ母犬から生まれた妹の傍に行き、二人同じ畑の方を向いて実に長い間そうしていました。
(別れを告げていたのだと言えば、主観になるので言いません)
それからかれは畑に行き、愛おしそうに土に鼻をつけてしばらくその匂いをかぎました。
そのあと、つんと鼻を空に向けたかと思うと目を閉じて深呼吸をしたのです。
11月の山あいの澄んだひんやりとした空気を胸いっぱいに吸い込んだのです。
三段の階段はもう上がることができませんでした。
わたしは主観をまじえずに事実だけを書いたつもりです。
動物には死の概念はないというほど人間は傲慢になってしまいました。
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