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谷間の百合

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拉致被害者家族の罪。

12日に転載した山桜さまのブログの記事がなぜか消えてしまっていましたのでもう一度UPします。


8年目
家族会03 /122019
(※拉致被害者家族に呼びかける形態でお伝えします)

“あの日”から8年が経ちました。
大切な方を亡くされた方、まだ行方不明のままの方を探す方、
生活の再建が困難な方、環境が変り孤独を感じておられる方、
多くの方々が悲しみや虚しさの中におられることを思うと
寄り添う人がいること、支える人がいることに
どうか、気付くことができますようにと祈らずにいられません。

皇后陛下が被災地の子ども達に絵本を送られたというニュースを目にしました。
https://www.news-postseven.com/archives/20190311_919801.html?PAGE=1#container
その中の『でんでんむしのかなしみ』(新実南吉)というお話しを以下に載せます。

イツピキノ デンデンムシガ アリマシタ。
 アル ヒ ソノ デンデンムシハ タイヘンナ コトニ キガ ツキマシタ。
「ワタシハ イママデ ウツカリシテ ヰタケレド、
ワタシノ セナカノ カラノ ナカニハ 
カナシミガ イツパイ ツマツテ ヰルデハ ナイカ」
 コノ カナシミハ ドウ シタラ ヨイデセウ。
 デンデンムシハ オトモダチノ デンデンムシノ トコロニ 
ヤツテ イキマシタ。
「ワタシハ モウ イキテ ヰラレマセン」
ト ソノ デンデンムシハ オトモダチニ イヒマシタ。
「ナンデスカ」
ト オトモダチノ デンデンムシハ キキマシタ。
「ワタシハ ナント イフ フシアハセナ モノデセウ。
ワタシノ セナカノ カラノ ナカニハ 
カナシミガ イツパイ ツマツテ ヰルノデス」
ト ハジメノ デンデンムシガ ハナシマシタ。
 スルト オトモダチノ デンデンムシハ イヒマシタ。
「アナタバカリデハ アリマセン。
ワタシノ セナカニモ カナシミハ イツパイデス。」

 ソレヂヤ シカタナイト オモツテ、ハジメノ デンデンムシハ、
ベツノ オトモダチノ トコロヘ イキマシタ。
 スルト ソノ オトモダチモ イヒマシタ。
「アナタバカリヂヤ アリマセン。
ワタシノ セナカニモ カナシミハ イツパイデス」
 ソコデ、ハジメノ デンデンムシハ 
マタ ベツノ オトモダチノ トコロヘ イキマシタ。
 カウシテ、オトモダチヲ ジユンジユンニ タヅネテ イキマシタガ、
ドノ トモダチモ オナジ コトヲ イフノデ アリマシタ。
 トウトウ ハジメノ デンデンムシハ キガ ツキマシタ。
「カナシミハ ダレデモ モツテ ヰルノダ。
ワタシバカリデハ ナイノダ。
ワタシハ ワタシノ カナシミヲ コラヘテ イカナキヤ ナラナイ」
 ソシテ、コノ デンデンムシハ モウ、ナゲクノヲ ヤメタノデ アリマス。
(1980,新実南吉 青空文庫より転載)

人は、誰でも大なり小なり悲しみを経験しています。
その中でも大切な人との別れというのは最大の悲しみであろうと思います。
朝、「行ってきます」「行ってらっしゃい」と言葉を交わし、
夕方当たり前のように食卓を囲む、と思っていたのに…
拉致被害者が家族を失った“その時”を想像し、
心が締め付けられるように感じたことを覚えています。

しかし、そのような経験は、拉致問題に限定されたことではありません。
8年前の“あの日”もそうだったのです。
過労死で家族を亡くされた方もそうでした。
交通事故などで家族を亡くされた方も。
それぞれに悲しみ、喪失感を感じ、更には自分を責めることもあるでしょう。
「あの時、声をかけておけば。」「手を離さなければ。」
しかし、残されたものはそれでも、生きていかねばなりません。
悲しみを受け容れ、亡くなった人を思いながら生きていくしかないのです。
「でんでんむし」が背中に悲しみを背負いながら生きていくように。


拉致被害者家族の罪。_c0243877_1959397.jpg


私たちのブログのタイトルにもなっている
「ニーバーの祈り」は別名「平静の祈り」とも言われています。
「神よ 変えられないことを受け容れる心の平静さを与え給え」
から来ています。
「変えられないことを受け容れる」ことは容易なことではないのです。
とても平静な心持ちではいられません。
自分一人ではどうにもならないほどに。
だから、受け容れられるようにと神に祈るのです。
一度祈ったから、叶えられるわけではありません。
何日も、何年もかけて少しずつ、
受け容れられるようになっていくのだと思います。

人はこの世で永遠に生きることはできません。
命には限りがあるのです。
失った家族や大切な人の命は戻ってくることはありません。
残された者は、それを変えられない現実として受け容れるのです。
そして、命には上下、軽重などありません。
どの命も等しく尊く、1つしかないのです。
人権についても同様です。上下、軽重などありません。

拉致された被害者を「全員生きている前提で」取り戻すという
日本政府の方針のなんと残酷なことでしょうか。
「亡くなっている可能性も考えて、対応いたします」と
発言することができないばかりに
家族に余計な「希望」を持たせ続けているのです。
「希望は最悪の災いだ。苦しみを長引かせるのだから」(ニーチェ)
という言葉を思い出します。

*私たちは、「全」拉致被害者が亡くなっていると言いたいのではありません。
 人の命に限りがある以上、そのことも考慮に入れて
 誠実に家族や北朝鮮との交渉にあたるべきだと考えているのです。
 このことは当ブログ「新しい視点」にも書いております。

家族にも判っているはずです。
「人は永遠にこの世で生きることはできない」ことは。
それなのに、何故「生きて、目の前に連れてきなさい」と言い、
北朝鮮が何を出して来ても「北朝鮮は嘘ばかりだから」と否定し、
見たいものしか見ようとしないのでしょうか。

「生きて、再会したい」という家族の気持ちは理解できます。
しかし、政府が「生きている前提で」と
おかしな希望を持たせるので、現実を受け容れることが
出来なくなっているのです。
その歪んだ「希望」が北朝鮮、在日韓国・朝鮮人への憎悪を生んでいる、
また、そのことに利用されているということに気づけないほどに。

哀しみは哀しみとして受け容れる、
そこから周りの人への愛が生まれるのではないでしょうか。
自分と同じ悲しい思いを他の誰にも味わってほしくないから、と。
8年目の“あの日”のニュースを見て、
悲しみを受け容れて、それでも生きている人達の姿は
拉致被害者家族にはどのように映ったのでしょうか。
「まだ行方不明のままだから、どこかで記憶喪失にでもなって
生きている、いつかきっと戻ってくる、
だから、政府は「行方不明者は生きているという前提で」
総力を挙げて、最優先にして探し出して欲しい」
という人などいません。
行方不明者の捜索、被災者救済が「最重要事項だ!最優先だ!」
という人もいません。
現実を悲しみと共に受け容れて、静かに、強く生きています。

自分達に共感をして欲しいと国民に願うなら、
他の人達の悲しみ、困難さにも心を寄せたらどうなのでしょうか。
共感とは、共に感じると書きます。
一方向的なものではありません。

「ワタシハ ワタシノ カナシミヲ コラヘテ イカナキヤ ナラナイ」
というのは「我慢しなさい・諦めなさい」という意味ではありません。
そんな意味の絵本を、皇后陛下が送るはずがありません。
一人では担いきれないカナシミを、共に担って生きていく事。
長い別離の後、奇跡的に会うことができたなら、それまでカナシミを共有していた人々と共に喜びあう事。

他の人達の悲しみ、困難さにも心を寄せることは、自分のためでもあるのです。


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by michi-no-yuri | 2019-06-14 20:01 | Comments(0)
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