息子を刺殺した元事務次官の顔を見て、多くの人がそういえばこういうガリ勉タイプがクラスにいたなと思ったのではないでしょうか。
ほんとうは分かりませんが、勉強ばかりしていた人のように見えます。
しかし、勉強が優秀なだけで事務次官にまで上りつめることはできないでしょうからそれなりに処世術も身に付けていたのでしょう。
ツイッターのカキコミが息子本人だとすると、自分はお前たちとは違う上級国民だという意識の塊のような人間です。
わたしは社会的に偉い父を持ちませんが、想像しても暴力が中学生のときから始まっていたという環境は地獄です。
事務次官当時の記者会見の映像でもすでにその地獄を窺わせるような精気のなさです。
思えば50年以上続いた地獄だったのです。
息子は、自分という「個」ではなく、「偉い人の子ども」という人生を送るしかなかったのでしょう。
父からの自立を試みる以前に、かれの暴力は始まっていたのです。
「偉い人の子ども」という呪縛が始まっていたのです。
有名大学を出た人も、一生その呪縛に囚われらて、「素の自分」に出会うこともなく、真の「自由」を知ることもなく一生を終えます。
それを不幸だとは思わないばかりか、いい人生だった、損得勘定で言えば得をした人生だったと思って死んでいく人が多いのかもしれませんが、中には事務次官のような地獄を送っている人もいて、いまごろ身につまされているのではないでしょうか。
元事務次官もこういう結果を迎えるために一生懸命勉強し仕事をしてきたのかと思うとひとしお哀れを催します。
家庭を顧みる余裕などまったくなかったでしょう。
家庭を持つ=社会的信用という通念がありますが、わたしは、公の仕事一筋で生きる人は子どもはつくらないほうがいいのではないかと思います。
大女優と言われている人の多くは子どもがいませんが、わたしはそれが正解だと思っています。
子どもを持ったばかりに苦労の絶えない女優さんもいて同情を禁じ得ませんが、有名税と言ってしまうにはあまりにも不条理なものを感じます。
その息子は母親に対して攻撃的だったということですが、母親も自分と同じで「偉い人」に寄生して生きているだけの人間ではないかという嫌悪感でもあったのでしょうか。
自己嫌悪、自己憎悪を母親にぶっつけてうっぷんを晴らしていたのかも。
きょう送検されていく元事務次官の顔には気のせいかもしれませんが開放感のようなものがありました。
長い長い苦しみからの解放だったのだろうと想像しました。
×