遠藤周作さんが、電車などで同年輩の女性を見かけると、あのころ(戦争中)はお互い大変でしたよねと声をかけたくなると何かに書いていました。
そんなことを思い出したのは、先日書いた伊丹万作の、戦争になってからはただ自国が勝つこと以外は何も望まなかったという言葉や昭和天皇の戦時中の戦局にたいする言動が公開されたことからの連想ですが、本当にあのころ国民は一丸になって必勝を祈願していたことがひしひしと感じられます。
ところが、戦争に敗けると、戦争映画を撮ったり、戦争画を描いたり、戦争の詩を書いたりした人たちが同じ日本人によって戦争協力者として摘発されパージされました。
しかもそれに対して抗議したり抵抗した人間はいなかったのです。
自国の戦争の必勝を願って創作したものが戦争犯罪に手を貸したということになったのですが、改めてその倒錯した心理に驚かされます。
戦争中の犯罪はあくまで犯罪ですが、自国の戦争を犯罪だと認めたのは日本だけではないでしょうか。
フランスではドイツ軍に協力した人間を市民が私刑にしましたが、日本はそれと逆でした。
むしろアメリカに協力した人間は戦後優遇されたのではありませんか。
戦争が人間を変えるということ以上に日本人は自ら変わったのです。
わたしはこころのなかで、遠藤周作さんと同じ言葉を昭和天皇に掛けたくなるのです。
全国巡幸で天皇は熱狂という言葉が薄れるほどの歓迎を受けるのですが、それは、やはり戦争中はお互い大変でしたねという言葉を掛けたいという気持ちの発露だったのではないでしょうか。
あれは軍国主義の洗脳によるものだと分かったようなことを言う人がいますが、それなら、軍国主義から一夜にして民主主義に変わったときにその洗脳は解けていなければならないはずです。
みんなが必勝を祈願したのです。
それを後になって否定するのは人間としてハズカシイことです。
日本の戦争を犯罪だと認めたことから天皇の戦争責任論が出てきたのでしょうが、日本だけはそれを言ってはいけなかったのです。
旧ソ連や中国のようなことを日本だけは言ってはいけなかったのです。
世界で戦争責任などいまだかって問われたことはないのです。
日本の一部の天皇憎しに凝り固まっている人間がありもしない戦争責任という概念を創作したのです。
年が明けて初出勤の日、同僚が東京のお土産ですと菓子折りを上司にさしだしたとき、上司が間髪入れずに「一般参賀か」と言ったことに驚いたと娘が話してくれました。
同僚は一般参賀に行っていたのですが、社会の見えないところで、こういう精神が脈々と受け継がれていることにわたしも新鮮な驚きを持ちました。
(決して右よりの職場ではなくあえて言えば逆です)
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