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谷間の百合

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本を読むことの弊害。

帰省した総理が父晋太郎さんのお墓に参っている映像を見て、その墓地の広さに目が行ったのですが、わが家の墓のある霊園にも6畳~10畳はあろうかと思えるようなお墓が点在しているのですが、墓の主の名まえは例外なく朝鮮名です。
やはり、同じDNAなのかなと思うのはあくまでわたしの個人的感想です。
総理が頻繁に帰省するのは、なにか緊密な関係を維持しなければ不都合な事情でもあるのだろうかと勘繰りたくなります。
山口の人も、こういう人間を総理に担いでいては末代まで肩身の狭い思いをすることになるとは思わないのでしょうか。

きょうの「徽宗皇帝のブログ」に「バカの壁とはこころの壁」ということで、バカとは知識の多寡でも東大卒でもなく「世界の見え方」の問題だと書かれています。
では、その「世界の見え方」の「世界」とは何を指すのでしょうか。
先日兄にあったのですが、いつものことですが、子どもたち(もうみんな3.40代ですが)が本を読まないことを愚痴るのです。
結婚する前に妻の実家にいったとき、本の一冊もなかった、だから子どもも本も新聞も読まない人間になったと言うのです。
しかし、兄の言う本とは、「正論」に象徴される種類の本であり、新聞とは「産経」なのです。
もし、朝日でも読もうものなら、新聞を読まないこと以上に慨嘆、悲憤するのは明らかです。


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ウーマンラッシュアワー村本さんは本を読まないそうです。
わたしも読みません。
読んだと言えるのは、中学生のときと、皮肉にも子育てに忙殺されていたころだけでした。
三島由紀夫が、本を読む若者は嫌いだと言っていたと思いますが、わたしもその気持ちがよく分かります。
最初に出会った本、最初に出会った人の言葉が出発点にも通過点にもならず、それだけが世界になってしまう人がいるからです。
一生そこから脱け出せない人がいるのです。
わたしは、本を読んでいるという人に人間的魅力がないのはなぜだろうと思うことがよくありました。
(もちろん、わたしが一流の読書人を知らないからということもあります)
本を読む人は大体人の話しを聞きません。
そこにいる、目の前の人間に関心を持ちません。
ウーマン村本さんは、本からではなく、より多くの人から話を聞いて考えを広め深めて行っているように思います。
わたしはそうであるべきだと思います。
生きている世界、生きている人から学ぶことが「生きる」ということだと思うのです。
しかも、「生」は連続した世界ですから当然そこには過去も存在しています。
現実の中に過去があり過去もまた現実だということだと思っています。
「世界の見え方」の世界とはそういうことではないでしょうか。


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by michi-no-yuri | 2019-01-07 10:18 | Comments(0)
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