これはエリートとの戦いだとパリの暴動の参加者が言ったと、聞いてきた人が書いていました。
一瞬エリートの意味が分からなかったのですが、フランス革命時の貴族のような層を指すのでしょうか。
エリートとは、優れた資質を持つ者であり、社会の中にあって指導的な役割をもつ人間、集団のことだいうことです。
きょうの「徽宗皇帝のブログ」の「リベラリズムの死」という記事に、英国のジャーナリスト、ダグラス.マレーの「西洋の死、移民、アイデンティティ、イスラム」という話題の問題作を中野剛志さんが解説した記事が転載されています。
中野さんの言うように、構成力、論証力、文体は見事というほかはないと言う言葉に異論はありませんが、それでもわたしには疑問というか分からないことがあります。
エリートは、宗教的、文化的多様性に対する寛容というリベラルな価値観をもっているという前提が分からないのです。
わたしの中でエリート=寛容という等式はあり得ません。
だから、なぜエリートが移民に賛成するのかという根本の問題が疑問として残るのです。
エリートが自分たちに不利なこと損になることに賛成するとは思えないからです。
以下に、「欧州において、移民の受け入れは次のような論理によって正当化された」という後半部分を転載します。(全文は「徽宗皇帝のブログ」でお読みください)
電車から
「移民は経済成長に必要だ」
「高齢化社会では移民を受け入れるしかない」
「移民は文化を多様で豊かなものとする」
「どっちにしても、グローバル化の時代では、移民の流入は止められないのだ」
これらの主張はいずれも、日本の移民推進論者たちにも踏襲されている。もっとも、マレーが鮮やかに論証するように、どの主張も論拠を欠いている。
ところが欧州のエリートたちは、この主張のうちの1つが破綻すると、別の主張で置き換えつつ、移民の受け入れの正当化を続けてきたのである。
こうした一見もっともらしい浅はかな主張の後押しを受けて、おびただしい数の移民が欧州に流入した。
その結果、欧州各地で文化的な風景が失われ、いくつかの町や都市はまるで中東ようになっていった。
それだけではない。治安は明らかに悪化し、テロが頻発するようになったのである。
政府やメディアが隠蔽した移民による犯罪
もっと深刻なのは、西洋的な価値観が侵害されたことであろう。
エリートたちは、宗教的・文化的多様性に対する寛容という、西洋的なリベラルな価値観を掲げて、移民の受け入れを正当化してきた。
しかし、皮肉なことに、こうして受け入れられたイスラム系の移民の中には、非イスラム教徒あるいは女性やLGBTに対する差別意識を改めようとしない者たちも少なくなかった。
このため、移民による強姦、女子割礼、少女の人身売買といった蛮行が欧州で頻発するようになってしまったのである。
ところが、ここからが私たちを最も驚愕させる点なのだが、欧州の政府機関やマスメディアは、移民による犯罪の事実を極力隠蔽しようとしたのである。
それどころか、犯罪の被害者すらもが、加害者である移民を告発することをためらった。
というのも、そうすることによって、人種差別主義者の烙印を押されることを恐れたからである。
そして実際に、移民による犯罪を告発した被害者に対して人種差別主義者の汚名が着せられたり、あるいは告発した被害者のほうが良心の呵責を覚えたりといった、倒錯としか言いようのない現象が頻発したのである。
この異常事態は、もはや「全体主義的」と形容せざるをえない。寛容を旨とするリベラリズムがねじれて、非リベラルな文化に対しても寛容になり、ついには、人権、法の支配、言論の自由といったリベラリズムの中核的価値観を侵害するに至ったのである。
まさに、「リベラリズムの自死」と言ってよい。
この「リベラリズムの自死」あるいは「リベラリズムによる全体主義」と言うべき異様な雰囲気の中で、保守派のマレーは本書を世に問うた。
移民の受け入れを徹底的に批判し、それを欧州の「自死」であると堂々断罪してみせたのである。
これは、ジャーナリストとしての政治生命を賭したレジスタンスと言っても過言ではない。
(読み易いように文節ごとに改行しました)
このなかで、文化的な風景が失われ、いくつかの町や都市は、まるで中東のようになっていったとありますが、東京にもモスクが増えたということですね。
もうだれもそれを食い止めることができなくなりました。
自国の歴史、文化に責任を持たないエリートって、、なにものですか。
猿沢池
×