毎日書きたいことが三つくらいあるのですが、大体一つしか書けませんので、いつも後の二つが残ります。
翌日も、あらたに書きたいことが二つは出てくるので書けないことがどんどん積もっていきます。
(水野光彦さんという方から丁寧なコメントをいただき、わたしも丁寧なお返事をしなければと思っている内に、結局こういうことで書けなくなりこころ苦しく思っています。)
長生きする人間の条件の一つに、毎日ニュースを追っかけているというのがあり、さしずめわたしなんかに当てはまりそうです。
昭恵さんがまた元気に活動を再開されたようです。
いままで昭恵さんに批判的だったという西川史子さんが、昭恵さんに会った途端、なんと素敵な方だろうと思ったそうです。
アッパレを差し上げたいくらい真っ正直な人ですね。
わたしはひねくれていますから、たとえそう思っても口には出しませんが、でもそうなるのはよく分かるのです。
総理やファーストレディが向こうからこちらのフトコロに飛び込んできてお世辞を言い機嫌をとってくれるのですから、悪い気がする人なんかいません。
みんなそれでやられているのです。
なんて気さくないい人なんだろうと。
自分はゼッタイそうはならないと思っている人ほど怪しいかもしれません。
「君子危うきに近よらず」という格言は自分の(人間の)弱さを自覚しなさいということです。
わたしの人間観の基本は人間は弱いものという自己認識です。
きのうの「きょうの新聞から」で忘れていたのがわたしのもっとも書きたいことでした。
新聞に載っていたロベール.ドアノーという写真家の有名な「市役所前のキス」という写真に魅せられたからです。
むかし見たことがあったように思いますが判然としません。
わたしは、写真家といえばアラーキーさんを知っているくらいで、写真に関する知識も興味もなく今まで生きてきました。
そんなわたしですが、これは報道写真と言ってもいいのではないかと思いました。
ニュース性はなくても、それを凌駕する時代性があります。
「歴史の証言」と言ってもいい写真だと思いました。
日本でも現在こういう写真を撮っている人がいるのでしょうか。
昭和2.30年代の銀座の写真など、いくら見ても飽きないのは、そこに映っている若い女性の眩しいばかりの明るい笑顔に惹かれるからです。
そういう笑顔は夢の中でしか見られないと言ってもいいくらいいまの日本に眩しい笑顔はありません。
写真のような絵と言いますが、絵のような写真がよくあります。
日の出、日没など、地球が在る限りなくなるものではないのに、なぜ人はそれを撮ろうとするのでしょうか。
それより、失われていくもの、移ろっていくものにこそレンズを向けてほしいと思います、、
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