総理はヒロシマでのスピーチの最後をこう締めくくりました。
「結びに、永遠の平和が祈られ続けているこの広島市において『核兵器のない世界』と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことをお誓い申し上げます。」
自分が書いたものではなくても、よくこれだけ白々しいウソをヒロシマで言えるものだと思います。
なぜなら、巷ではじわじわと言論統制が広がっているからです。
「大きくなったら国会議員になって世界に自慢できる平和な国を作りたい」と書いた子どもの作文が政治的批判を含んでいるという理由で卒業文集に載らなかったという。
つまり、平和という言葉が政治批判だということは、政府が戦争をしようとしているということです。
なんと「平和」が左翼用語なのだそうです。
「Piece」とプリントされたTシャツを着ていたら警官に呼び止められたとか、先日は国会へ傍聴に入ろうとした女性のTシャツの「NO9」「NOWAR」は駄目だと阻止されたということです。
衛士は睨みつけ威嚇するような顔をしたということで、わたしはそれがとても恐ろしいことに思えました。
いまや、気兼ねなく、堂々と「平和」という言葉を使えるのは総理だけという冗談のようなことが現実になっていることにみんな気付いてほしい。
警官や国会の衛士が上からの指示なく勝手にやれることではありません。
過日は大西議員に罵声を浴びせた自衛官がいましたが、この自衛官が特別な存在だとは思えないのです。
自衛官、警官の右傾化というより、権力の走狗になることほど怖いことはありません。
しかし、いまや自衛隊や警察は総理の私兵、私物になっているのではないでしょうか。
三権分立も破壊されもう国民を守ってくれるものありません。
久米宏さんがラジオでオリンピックを痛烈に批判したそうですが、オリンピックには反対だが公務員なので匿名でお願いしますと言ったリスナーに対してもそれはおかしいと容赦しませんでした。
しかし、公務員のほとんどはそうでしょう。
政府の方針に従うのが公務員だと勘違いしています。
みんな保身のために空気を読みます。
そんな空気の蔓延、伝染は瞬く間に国中を席捲します。
そして、目に見えない恐怖という鎖に繋がれて口を閉ざすのです。
戦前、椿の花の赤さを詠んだ俳句が、赤=共産主義者ということで逮捕される事件がありましたが、もうそういう段階が眼前に迫っています。
ほんとうに信じられないことが進行しています。
同じ敗戦国のドイツには水を開けられたというより、日本は逆のベクトルに突き進んでいます。
ドイツではホロコーストを否定することは罪になりますし、日本が時代にそぐわなくなったとして変えようとしている平和、基本的人権、法治主義、三権分立は憲法の永久条項になっているということです。
こういう価値観が時代によって変わることなどあり得ないのです。
なぜこうまで違ってしまったのでしょう。
日本人は反省も内省もできない国民なのかもしれません。
恥の観念が強いと言われますが、それも反省には結びつかないようです。
そもそも恥を知る民族というのも怪しいものです。
案外それは世間体だったりして。
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