わたしが観劇というものをしたのは、大雑把に言えば、宝塚ファンだった父について宝塚歌劇を観に行ったこと、松竹新喜劇を一回観たこと、そして、近くに来たという理由だけで文学座のシェークスピア劇(学芸会みたいだった)を見たのと、知人の女性に誘われて二代目井上八千代の舞台を見に行った四度しか覚えていません。
他にも退屈な音楽会などには何度も行ったと思いますが、ほとんど記憶に残っていません。
残念でならないのは、その当時、わたしが井上八千代の踊りにまったく興味がなかったことです。
いまは、死ぬほど日本舞踊が好きだ、、
日本の踊りなら盆踊りでも御神楽でも能でも所作事でもなんでもいい。
こんなことを思い出したのは、菅野完さんがツイッターで
「僕は、(人形浄瑠璃の)新ノ口村のあのシーン(最後のシーン?)こそがこの世でもっとも美しく、切ない光景だと10代のころから思い続けています。」
と書いているのを読んだからです。
それが男女の道行のものがたりであり、梅川、忠兵衛の名前くらいは知っていても、それは知った内には入りません。
わたしが、菅野さんが若いころからそういう世界に親しんでいたことに羨望というより敗北感のようなものを感じたのは、自分にもっとも欠けているものを指摘されたように思ったからです。
稲垣足穂の小説にも、謡曲の台詞が随所に出てきます。
父親の影響で、幼いころから馴染んでいた世界ですが、このときも同じような心理に陥ったことでした。
謡のある台詞を聴いて、「涙せきあえず」と書いた個所があったと思いますが、つまり、自分に欠けているのはそういうものへの感受性でした。
石上神社
政府は来年度から小学校に道徳教育を導入します。
「教育勅語」も副次的に使われるようです。
しかし、政府が道徳教育に熱心なのは、稲田大臣がよく言うように日本を「道義大国」にするためではありません。
国民の管理、支配を容易にするための「ツール」にするためです。
政府の言うことに徹底して従わせるためのツールなのです。
わたしは「教育勅語」より日本の古典を教えてほしいと思います。
道徳よりも、「情操」です。
しかし、現実にはそれを教えられる人もいなければ、お手本になる人もいません。
反面教師ばかりですが、それを反面教師と思わない日本人がたくさんいることが最大の危機ではないでしょうか。
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