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谷間の百合

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 家を守るということ。

わたしは聖書を通読したことも熟読したこともないので何とも言えないのですが、聖書は「働きたくない者は食べてはならない」と言っていると曽野綾子さんが書いています。
ものは取りようですから、そう読めるところがあるのかもしれませんが、それにしても、働かない者や働けなくなった年寄りに対する曽野さんの「憎悪」はどこから出てくるのだろうと思うことがあります。
働きたく者は許さない、働ける内はいくつになっても働けと曽野さんは言うのです。
わたしは、総理の「一億総活躍社会」とは国民総奴隷化のことだと思っているのですが、さしずめ曽野さんには奴隷頭が適任でしょう。
曽野さんは多分、自分の食い扶持くらいは自分で稼げ、国に迷惑を掛けるなと言いたいのではないでしょうか。
社会保障などは国民を甘やかせるだけだと言いたいのだと思います。
人は一人では生きていけないという互助の精神や共生共存を真っ向から否定する思想です。
そこには思いやりも優しさもありません。
そういう思想が、クリスチャンの曽野さんの口から出てくるところに、宗教が内包する不寛容、偽善、恐ろしさがあるのを感じないではいられません。
なぜ、ほとんどの宗教がそうなるのでしょうか。


 家を守るということ。_c0243877_1048235.jpg


「この世界の片隅に」の中で水原が次のように言う場面があります。

「すずがここで家を守るんも、わしが青葉(重巡洋艦)で国を守るんも同じだけ当たり前の営みじゃ。
そう思うてずっと、この世界で普通で、、、まともで居ってくれ。」


運命に対する透徹した諦観から洩れ出た言葉のように思いますが、そこでふと思ったのが、「家を守る」という当たり前で普通のことが、いつのころからかすっかり人々の頭からなくなっていることでした。
ところが、いま政府が考えているのが家族制度の改変です。
「家を守る」という普通のまともなことが、政府によって、家を守る=国を守る、公への奉仕、愛国心という構図に変えられようとしています。
しかし、「家を守る」とは、もっとも素朴で根源的で自然な営みではないでしょうか。
すずが結婚や人生に疑問も不満も持たず、ただ「置かれた場所」で普通に生きていたように、「家を守る」のも当たり前の日常の営みです。
わたしは、そういう個人のささやかな営みが国によって蹂躙されるようなことがこの先あってほしくありません。
「家を守る」ことが「国を守る」ことに繋がるのはいいとして、国を守るために家や家族が利用され犠牲にされるのだけは御免です。


 家を守るということ。_c0243877_1053051.jpg











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by michi-no-yuri | 2017-01-18 10:55 | Comments(14)
Commented by 山桜 at 2017-01-18 13:10 x
私はプロテスタントのクリスチャンです。
「働きたくない者は、食べてはならない」は聖書にあります。(テサロニケ第2の手紙3章10節)
これが書かれた時代背景もあるのですが、
働けるのに働かないという怠惰を戒める言葉です。

また、様々な事情で「労働」ができない人もいます。
その人達は食べてはならないのか?
そうではありません。
「労働」できない人でもどのような人でも
存在そのものが「働き」であるということです。
「あなたが存在していることで嬉しい、感謝だ。」
という思いを与えることができれば
十分な「働き」であるといえるでしょう。
聖書のいう「働き」と「労働」は分けて考えるものだと
思います。

曽野さんは、絶対的貧困しか認めないような人です。
だから、日本には
「貧困はない。働かないのは怠惰だからだ」と言い切るのです。
そこに愛はないと思います。
しかし、曽野さんのような愛のない人でも、
安倍総理のようなどうしようもないトップでも
神が「その人」の存在を許しておられるなら
そこには何か理由があるのだろうと私は考えています。
クリスチャンは曽野さんのような人ばかりではありません。

「置かれた場所で咲きなさい」
その場所に必要だから、あなたはそこに置かれたのです。
だから、そこから引き抜かれないように、
そこで自分の花を咲かせていさせてくださいと祈りたいです。


Commented by michi-no-yuri at 2017-01-18 19:03
山桜さま

コメントありがとうございます。
ご指摘ありがとうございます。
聖書は諳んじるくらい読み込んでおられるのでしょうね。

その言葉はイエスが働かない者に向けて直接言われたことだと思うのですが、それを曽野さんのような人が、働かない者を非難、糾弾するために使ってはいけないのではないでしょうか。
イエスの言葉は、自分に向けられた言葉として受けとるものだと思うのですが、往々にして人を裁いたり否定するために使われることがあり、それによって要らぬ誤解や争いが生じるように思います。
わたしは宗教の戒律が嫌いです。
だれでも人はしてはいけないことは分かっているのです。
いけないことだと知りながらしてしまうのが人間の弱さであって、それを戒律で縛ると罪悪感だけを植え付けて、肝心の反省や気付きのチャンスを奪ってしまうように思うからです。
わたしは、たとえイエスの言葉であってもそれに囚われたくありません。
囚われてしまうとイエスから離れてしまうような気がします。

存在そのものが働きであるというのも聖書の言葉ですか。
年寄りに対して、存在そのものが「働き」であるという視点が、曽野さんにはないのですね。
そういう老人が少ないことも事実ですが、しかしそれは若い人たちの「働きかけ」がないことも原因でしょう。
「この世界の片隅に」の作者はたくさんの資料の渉猟もさることながら、たくさんの戦争体験者の話を丁寧に聞かれことが、この作品を誕生させたのだと思います。
その作者のこうの史代さんが
「私の描いたマンガが家族の昔の話を聞くきっかけになればいいなと思う。」と言っておられることは、ほんとうに大切なことだと思います。
しかし、若い人が聞いてこなくても、独り言でもいいから、老人はむかしの話をすべきではないかと思います。
語り継ぎ、言い伝え、あるいは家庭の中から会話がなくなることは歴史の断絶を意味します。
「この世界の片隅に」に、政治色や宗教色や人生訓がないのはスバラシイですね。
できるだけ事実を描こうとされたことがよかったのでしょう。
こうの史代とはナニモノ!?という驚きが続いています。
「働き」と「労働」の違いについて、明日書いてみたいと思っています。
Commented by 山桜 at 2017-01-19 21:56 x
「働かないものは~」はイエスではなくパウロの言葉です。
パウロがその手紙を書き送った当時、
「私たちは祈ることに専念する。私達の為にあなた方は働いて私達にパンを与えなさい。」
という人達を憂慮してそのような人達を戒めるために言った言葉とされています。
誤用されまくっている言葉であるとは思います。

>存在そのものが働きであるというのも聖書の言葉ですか。
直接には無いと思いますが、
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛してくださいました。」から
全ての人はその存在を許されている、存在そのものが尊いと私は思っています。

病気や障害が神からの罰であるとはイエスは言いません。
病人や障害のある人達を介護したりすることで、
彼らを通して介護した人に何かを与えることができる
という考え方でも良いと思うのですが。
「その人」の中に神を見出し、神に仕える喜びを与えられる、
だから感謝を与える存在として、病人も障碍のある人も尊いという考え方もできるかもしれません。
こういった考え方は仏陀の教えにも似たようなものがあったと思います。
「一番小さな者にしたことは、私にしたことなのだ。」があります。
トルストイの民話で描かれるようなことです。
イエス自身が最も小さく、弱く、貧しい者だから、
そのような人達に寄り添えるのです。
新約の福音書は親鸞の『歎異抄』に良く似ていると思います。
私はキリスト教でなければダメとは思いません。
仏教でもキリスト教でも本質的には変わらないと思っています。

ちなみに、聖書を諳んじるほど読んではいませんよ。


Commented by 山桜 at 2017-01-19 22:15 x
連投すみません。
『この世界の片隅に』は観ていないので何も言えませんが、
家族という小さな共同体の崩壊が始まっているということで、
自民党の憲法草案に家族についての条項を盛り込むという
話を聞いてぞっとしています。
そうじゃないでしょ、利用するなと思うのです。
喩え、家族、家庭が崩壊しているのだとしても、
では、何故そうなのかを考えることが先ではないかと。

>語り継ぎ、言い伝え、あるいは家庭の中から会話が
>なくなることは歴史の断絶を意味します。
管理人さんの言葉から
『スローシティ』島村奈津、
映画『パーマネントライフ』を思い出しました。
地域共同体、商店街の消滅は
グローバル化、新自由主義と密接につながっていて、
効率や成果を求めすぎた結果です。
グローバリズムはその国、地域の文化を解体します。
故に私は、イギリスのEU離脱、トランプのTPP離脱に期待をしているのです。

顔と顔を見て話しをするということが
家族の中からも消えて、
TVやスマホの画面を見ながら何となく聞いているでは
ダメな訳で。
お店で店員さんと話をして買い物をするのではなく、
バーコードやレジの画面を見て、
あるいはネットでポチッとするだけということが
地域共同体の消滅にもつながっているように思います。
バラバラになった(された)個人は
繋がりたくて、群れたくて、おかしなナショナリズムに
取りこまれてしまっているようで警戒しています。
Commented by michi-no-yuri at 2017-01-20 12:12
山桜さま

コメントありがとうございます。
政府の考えている「一億総活躍社会」とは、家族制度を破壊し家族をバラバラにして、ただ働くだけの人間をつくるのが目的なのだと思います。
自民党の憲法草案が新しい家族の在り方として盛り込もうとしているのは、公が家族に優先するという思想だと思います。
それと家族をバラバラにすることの間に矛盾はありません。
バラバラになった個人を国家が吸収し管理するということでしょうから。

>バラバラになった(された)個人は
繋がりたくて、群れたくて、おかしなナショナリズムに
取りこまれてしまっているようで警戒しています。

と書いておられるように、ほんとうに恐ろしいことになっています。

人は会話を、或いは声を出さないといけないのです。
「声」がなくなった社会は不気味です。
奴隷社会です。

しかし、政府は共謀罪を成立させて、さらに国民から声を奪おうとしています。
人が三人寄れば良くない相談でもするとでも思っているのでしょう。
もう、政府にとって国民は「敵」でしかないのですね。
つづく。
Commented by michi-no-yuri at 2017-01-21 13:21
山桜さま

つづくとしたのは、聖書に「人はどこから来て、どこに行くのか」が書かれているのかを教えてほしいと思ったからです。
わたしは、ず~っとそれを知りたいと思ってきて、漸く輪廻転生に出会いました。
生まれてから死ぬまでの今生の生だけでは何一つ謎が解けません。
写真を撮っていて思うのが、人はどんな写真に惹かれるのかということですが、わたし自身、いわゆる風光明媚な美しい写真を見て、美しいと思うものの、それだけのことです。
振り返って、どんな写真に惹かれて眺めていたかを思い出すと、そこに「懐かしさ」があるかどうかなのです。
懐かしさ=既視感(デジャブ)です。
しかも、既視感は今生だけのものではないということです。
世の中の不公平、不条理も輪廻転生で考えるとスッキリします。
わたしは、岡潔の影響で仏教?に関心を持ったのが始まりですが、しかし、何も勉強はしませんでした。
それさえ分かれば、というのが輪廻転生でした。
それ以上に知りたいことはありませんでした。
(因果応報も輪廻転生とセットで考えないと、誤解する因になると思います。)
Commented by 山桜 at 2017-01-23 12:28 x
「人はどこから来て、何処へ行くのか」
聖書からいくつか抜粋します。全て新共同訳聖書からです。

「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」コヘレト12:7

「イエスは答えて言われた。
「たとえわたしが自分について証しをするとしても、
その証しは真実である。
自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、
わたしは知っているからだ。
しかし、あなたたちは、
わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」
ヨハネ福音書8:14

「天地創造の前に、神は私たちを愛して、ご自分の前で
聖なる者、汚れのない者にしようと、
キリストにおいてお選びになりました。」
エフェソ1:4

私個人は、神から来て、神の元へ帰ると思っています。
スピリチュアルでもオカルトでも何でもないのですが、
自分の体験として、
「今、ここにいることは確かに私が生まれるもっと前から、
決まっていたことなのだろう。」と思ったことがあります。
論理や科学的根拠を背景にして理解できるというものでは
ないと思います。
哲学でも無理かもしれないと思ったりします。
だから、信仰なのだろうと。

「因果応報」はキリスト教にはないので、
本当に仏教の意味としては判らないのですが、
悪行悪果、善行善果という単純なものではないと思いますがどうなのでしょう。
悪用して、「先祖(あなた)が悪い行いをしたから
今このように苦しいのだ。」と使われるようで
何だかそれは違うのではないかと思ってしまいます。
キリスト教では主権はあくまで神にあるので、
結果が望むようなものではなかったとしても
それには意味があると考えます。
そして、その意味はその時すぐには判らなくても
後で判ったりすることもありますし、
死ぬまで判らないままということもあります。
人と神とは違うので、神の意志を本当に理解はできないということです。

神学者でも何でもないので、
この程度ですみません。



Commented by michi-no-yuri at 2017-01-26 11:24
山桜さま

コメントありがとうございます。
お返事を読んで感じたのが、山桜さまが「信仰の人」だということと、そして、自分に信仰心が無いということでした。
信仰と信じるとは違いますよね。
わたしは輪廻転生を信じていますが、それを信仰とは言わないでしょう。
わたしは、分からないことや矛盾をそのままにしておけなくて、論理的であることを求めてきました。
輪廻転生が論理的だと言えば、理解されないのは分かっているのですが、でも、わたしは、宇宙は法則で成り立っていると思っています。
法則=論理です。

人間というより、意識はどこから来てどこに行くのかと言うべきでした。
意識(魂)に意識を集中すると、この世に存在する生きとし生けるものすべてが同じ意識体であることを強く感じることができます。
同じように心臓が鼓動をうち、温かい血が流れ、感情も意思も有する動物をどうして別の生命体だと思えるでしょうか。
キリスト教に因果応報の考えがないのは残念に思います。
それではなぜ不幸な人がいるのかの説明がつかないように思います。
でも、わたしにとって、真理を教えてくれる聖書の言葉が宝ものであることに変わりはありません。
Commented by 山桜 at 2017-02-05 13:00 x
管理人様

お返事ありがとうございます。

「魂」は神から出て神の許へと私は思っています。

>キリスト教に因果応報の考えがないのは残念に思います。
>それではなぜ不幸な人がいるのかの説明がつかないように思います。

何故不幸な人がいるのか。
何か、あるいは誰かが何かしたことの結果であるとは考えません。
神の意志ととらえます。
神は全能なのに、何故人をわざわざ不幸にするのか?
キリスト教では、神と人は違います。
主権は常に神の側にあり、選ぶのは神です。
その神から与えられた不幸な出来事にも意味があると
捉えます。
それは何故?と考えても判らないことはあります。
「何故、あのように良い人が不幸なのか?」等。
しかし、何かしらの神の側の理由があると考えるのです。

聖書の箇所に生まれながらの盲人について
弟子たちがイエスに問います。
「彼が盲人なのは、彼あるいはその先祖の悪行の結果ですか?」
イエスの答えは「神の栄光が現れる為。」です。
この箇所について、横田早紀江さんが
「何故、めぐみが拉致されたのかは判らない。
そのような時に聖書の学びを始めて、
この箇所に出会った。友人と難しくて判らないね、と
言いながら、でも意味があるのよね。と話した。」と
講演で幾度も語られています。
説明、理論があって納得したいのが人です。
でも理解不能、納得できないことが不条理として存在します。
続く
Commented by 山桜 at 2017-02-05 13:08 x
続き

字数制限につき、連投になります。
長くて申し訳ございません。

私は、早紀江さんとめぐみさんは神の選びにあったと思っています。
めぐみさんの拉致が明らかになった時、
日本中が衝撃を受け、早紀江さんの話しを聞いた時
共感し、涙を流しました。
そこから、では「私」に何ができるのかと考えました?
二度と同じ悲劇を繰り返さないために、
めぐみさんを夫妻のもとに返すためにと誰もが考えたように。
早紀江さんが「8人死亡」報告のあと、
「めぐみたちは日本、北朝鮮の大変なことを暴露しました。
濃厚な足跡を残しました。使命を果たしたのです。」と言われたときに
やはり選ばれたのだと思いました。
日朝の政治の犠牲となったのが拉致被害者であると考えた時、
同じ時代に生きるものとして放置しては置けない。
被害者全員取り戻せても、取り戻せなくても
このことを忘れてはいけないと思うのです。

神が不幸な出来事を人に与えても、
その解決の道をもあらかじめ用意していてくれるということも
聖書にはあります。
それでもそれを見つけられなくて、
自分の力で何とかしようとし続けるのが常ですが。
人にとっては偶然と思えることでも
神からすれば、必然なのだと私は思うので、
どのようなことにも意味があるのです。
生きているうちにその答えが判らなくても。
それで納得できないから、信仰には至らない、
あるいは信仰を捨てたという人も身近にいます。
人は知りたがりなんですよ。
仕方のないことだと思います。
でも納得したいからと、全て説明しようとしても
人の思考の範囲を超えることはできないように思います。
論理と信仰とはやはり別ものだと思う次第です。


Commented by michi-no-yuri at 2017-02-06 13:38
山桜さま

コメントありがとうございます。
遠藤周作の「沈黙」が映画化されたことで、あらためて信仰とは何かを考えさせられます。
踏み絵を踏むかどうかは究極の選択ですが、そこまでいかなくても、身近に厳しい選択を迫られることはありそうです。
たとえば、安倍政権を批判したり支持しないと言えば、投獄されるような事態は無きにしも非ずで、なにかを主張するということは、常にそういう危険と隣り合わせだということを覚悟していないといけないのかもしれません。
だから、わたしは「雉も鳴かずば撃たれまい」の諺を忘れることはありません。

数学者の岡潔や科学者のアインシュタインが仏教を絶賛したのは、普通は逆のように思うのでしょうが、かれらは論理を追及して数式や公式にするのが仕事だからでしょうか。
論理でないものを数式化することはできません。
しかし、イエスの教えは論理でなくても真理だと思います。
仏教は宇宙の真理に迫りましたが、イエスは人間の真理を証し、人間を救済するためにこの世に現れたのだと思います。

めぐみさんは「選ばれた人」という考えは分からないでもありませんが、選んだのは神なのですね。
めぐみさんは神の試練に耐えられる魂だったということですね。

仏教ではそれを「縁」(必然)と言うのだと思います。
人は日常的に、「縁」という言葉を使うのですが、だれひとり何の縁かを分かる人はいません。
だれにも分かりません。
それをそこらの宗教が悪用して。悪いのは祖先や親の因果だとか言いますが、ゼッタイにそれは違います。
人間に分かるものではないと。
Commented by 山桜 at 2017-02-06 20:40 x
お返事ありがとうございます。
やりとりが長くなってしまって、申し訳ございません。
これでおしまいにしますね。

>仏教ではそれを「縁」(必然)と言うのだと思います。
私も人にとっては、偶然と思えることは
神からすれば必然であると思いますし、
そのように考える牧師もいます。

>それをそこらの宗教が悪用して。
>悪いのは祖先や親の因果だとか言いますが、ゼッタイに>それは違います。
>人間に分かるものではないと。
そう思います。
人の領域とそうでない領域はあると思います。

早紀江さんのインタビューをリンクします。
http://news.livedoor.com/article/detail/12638297/

Commented by tiharu at 2017-02-21 22:32 x
人間なんて砂浜の砂粒と同じようなもの。
その一粒一粒に 神が意識を向けてくれるなどと、私には到底思えない。 
Commented by michi-no-yuri at 2017-02-22 13:11
tiharuさま

コメントありがとうございます。
わたしも、自分の存在は砂粒のようなものだと思っています。
自分が知っていることも一粒の砂くらいなものだと思っています。
しかし、それは神とは関係ありません。
人々がイメージする神というものをわたしは信じていません。
人々の、縋るものがほしい、信じるものがほしいという願望、欲望から生まれたのが「神」というものだと思っています。
わたしは、輪廻転生と因果の法則だけで全ての説明が付くと思っています。
アインシュタインが言ったという「神はサイコロをふらない」という言葉は神の否定だと思います。
すべては大宇宙の法則の内にあるということだと思います。
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