わたしは聖書を通読したことも熟読したこともないので何とも言えないのですが、聖書は「働きたくない者は食べてはならない」と言っていると曽野綾子さんが書いています。
ものは取りようですから、そう読めるところがあるのかもしれませんが、それにしても、働かない者や働けなくなった年寄りに対する曽野さんの「憎悪」はどこから出てくるのだろうと思うことがあります。
働きたく者は許さない、働ける内はいくつになっても働けと曽野さんは言うのです。
わたしは、総理の「一億総活躍社会」とは国民総奴隷化のことだと思っているのですが、さしずめ曽野さんには奴隷頭が適任でしょう。
曽野さんは多分、自分の食い扶持くらいは自分で稼げ、国に迷惑を掛けるなと言いたいのではないでしょうか。
社会保障などは国民を甘やかせるだけだと言いたいのだと思います。
人は一人では生きていけないという互助の精神や共生共存を真っ向から否定する思想です。
そこには思いやりも優しさもありません。
そういう思想が、クリスチャンの曽野さんの口から出てくるところに、宗教が内包する不寛容、偽善、恐ろしさがあるのを感じないではいられません。
なぜ、ほとんどの宗教がそうなるのでしょうか。
「この世界の片隅に」の中で水原が次のように言う場面があります。
「すずがここで家を守るんも、わしが青葉(重巡洋艦)で国を守るんも同じだけ当たり前の営みじゃ。
そう思うてずっと、この世界で普通で、、、まともで居ってくれ。」
運命に対する透徹した諦観から洩れ出た言葉のように思いますが、そこでふと思ったのが、「家を守る」という当たり前で普通のことが、いつのころからかすっかり人々の頭からなくなっていることでした。
ところが、いま政府が考えているのが家族制度の改変です。
「家を守る」という普通のまともなことが、政府によって、家を守る=国を守る、公への奉仕、愛国心という構図に変えられようとしています。
しかし、「家を守る」とは、もっとも素朴で根源的で自然な営みではないでしょうか。
すずが結婚や人生に疑問も不満も持たず、ただ「置かれた場所」で普通に生きていたように、「家を守る」のも当たり前の日常の営みです。
わたしは、そういう個人のささやかな営みが国によって蹂躙されるようなことがこの先あってほしくありません。
「家を守る」ことが「国を守る」ことに繋がるのはいいとして、国を守るために家や家族が利用され犠牲にされるのだけは御免です。
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