フジのFNS歌謡祭の長淵剛さんの歌が話題になっています。
わたしは見ていませんが、ユーチューブで視聴して、やはり胸が熱くなりました。
ほとんど音楽を聴かないわたしでも「乾杯」くらいは知っています。
知ったのは、3.11のあと、自衛隊員を激励しようと松島航空自衛隊基地を訪れた長淵さんが、大勢の隊員の前で歌ったのがその歌だったからです。
そのときは自衛隊オタクなのかなと思いましたが、そうではありませんでした。
その後、集団的自衛権に危機感を持ち、自衛隊員を海外派遣して死なせてはいけないと熱く語っていたからです。
これほど自衛隊員一人一人のいのちを愛しみ惜しむ人もいないのではと思い、こういう人が防衛大臣か統合幕僚長になったら、自衛隊員もどんなに嬉しいことかと思いました。
かれらは、隊員のいのちなんかなんとも思っていません。
自衛隊に入ったからには「死ぬ覚悟」はできていると、他人のことだから簡単にそう思うのでしょうが、しかし、隊員がその覚悟をもっているのなら、なおさら南スーダンなどに派遣してはいけないのです。
歌の中で
日本から歌が消えていく
日本から言葉が消えていく
というセリフがありますが、これはわたしの思いでもあります。
こんなに、日本が世界から見放され軽侮されボロボロになっているのに、なぜ、言葉が生まれない?
なぜ、歌がうまれない?とわたしはず~と思っているのです。
言葉がないのは、こころが無いからです。
こころがあれば、詩やうたが生まれないはずがありません。
たしかに、日本にはいい歌がたくさんあり、カラオケでうたう歌に事欠きません。
しかし、それは「今」のうたではありません。
いまの時代が生んだ歌ではありません。
時代の鮮度を切り取ったような「今」のうたがわたしはほしい。
日本が死にそうになっているのにだれも見て見ぬふりですか。
言葉をつぐむ歌い手たちが―魂の歌を産むならばー俺たちは歌によって正しい道を見つけることができるのに、、
とかれは言っています。
わたしもそう思います。
しかし、あまりにも沈黙が深くて、その深みから這い上がれないほど日本は沈んでしまっているのです。
最後のセリフです。
屈辱の血反吐を吐きながら、今日も俺たちは歌う。
俺ではなく、俺たちとしたのは、やはり、いっしょに歌おうと仲間に訴えたかったのでしょうか。
かなしいことですが、屈辱を感じている人はそう多くいません。
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