NHKスペシャル「決断なき原爆投下米大統領71年目の真実」をわたしは見逃しましたが、それについて書かれた記事などを読むと、やはり、真実とは一筋縄ではいかないことを痛感します。
いままで、原爆投下はトルーマン大統領個人の強い意志と決断によるものだと思っていたのですが、どの国も事情は似ていて、軍との激しい攻防があったようです。
軍の暴走は大統領でも止められなかったというのが真相のようです。
日本の場合はもっと軍の暴走が顕著だったのではないでしょうか。
天皇が戦争を止められたと思うのは余りにもナイーブで、想像力を欠くものだと思います。
しかし、わたしが注目したのはそのことではなく、大統領が友人に宛てた手紙に
「日本の女性や子どもへの慈悲の思いはわたしにもある。
人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している。」
と書いていることです。
瞬間思ったのが、わが総理にはそれが無いということでした。
慈悲のこころも惻隠の情もないということでした。
湾岸戦争の前日、パパブッシュは教会でお祈りをしていました。
戦勝だけを祈ったとは思えません。
やはり、「神の存在」がそういう行為につながったのだと思います。
きのう「徽宗皇帝のブログ」に「神が存在しなければ、すべては許されるか」というドストエフスキーの言葉が引用されていました。
「神」という概念がない日本人には理解しにくいことかもしれません。
しかし、たとえば、神を「輪廻転生」に置き換えたらどうでしょうか。
日本人はそれを知っていると思います。
親鸞が輪廻転生という言葉を使っているのかどうかわたしは知らないのですが、「縁」という考えは輪廻転生そのものではないでしょうか。
2.26のとき、安藤大尉だったと思いますが、殺されたらすぐに宮城に集まろうと言っているのですが、その言葉が、当たり前の日常感というかリアリティがあって実に衝撃的でした。
輪廻転生があるとかないとか言わなくても分かっているのです。
もし、それを荒唐無稽だと思うのなら、肉体という物質にこころや精神や運動機能があること自体が不思議ではありませんか。
死んだら終わりだと思っていないことが日本人の倫理感を形成し、生き方や行動を規制しているのだとわたしは思っています。
また、そうでなければいけないと思います。
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