「野党は「野合批判」を恐れるな。
後ろめたいような顔でやっていたのではダメだ。
統一候補という形ができたのだからそこに魂を入れてやることが大事なんだ」
と小沢一郎さんが言っています。
わたしも、与党からの野合だという批判に、なぜもっと魂を入れて、「打倒安倍」だと言えないのかともどかしく思っていました。
まったく、魂が入っていないのです。
それにしても、 山口那津男という人はどんな人間なのでしょう。
なんだか恥ずかしくて見ていられないのですが。
総理の女房みたいで、主人が批判されるとムキになって反論し庇っていましたね。
野党を野合というのなら、自党が長年、金魚のフンとか下駄の雪とか揶揄されてきたことにきっちり反論してほしい。
金魚のフンのままで、他党の批判をするのはおかしいです。
むかし、わたしは組織票というものが分かりませんでした。
なんで事前に票読みができたり当落の予想ができるのか不思議でなりませんでした。
また、分かってからも、その組織に属しているだけで、なぜ組織の推す候補者に投票するのかが分かりませんでした。
「生長の家」が、あらためて、自公だけではなく、「おおさか維新」「日本のこころ」「新党改革」を教団として支持しないことを表明した上で、各個人の投票は、本人の自由意思に基ずくものだという声明を出しました。
こういう当たり前のことが日本では当たり前ではないのです。
子どもが急病になったとき、近くの学会信者の家の人に車で病院まで送ってもらったことがありました。
それからというもの、そこの家族が入れ替わり立ち代わり訪ねてきて学会への入信を勧誘したのですが、、わたしはどうしても「うん」とは言えませんでした。
選挙のときにはご主人が車で迎えに来て、記名するわたしの後ろにぴったりくっついて、肩ごしにわたしの手元を見ているのを感じましたが、わたしは学会の推す人の名まえは書けませんでした。
わたしは決して頑なな性分の人間ではなく、当たり前のこととしてそれができなかっただけなのです。
「日本会議」は憲法の三大理念に加え、個人主義を敵視していますが、日本のどこに個人主義がありますか。
それを理解しているのは「生長の家」だけではありませんか。
個人主義もそうですが、主権在民も基本的人権も利己主義を助長するものとしか理解できないような人間が憲法を改正しようとしているのです。
高い税金で国民を苦しめた上に、公への奉仕ということで兵役の義務まで課そうとしているのです。
日本に、個人主義は100年早い。
いえ、100年でもムリでしょう。
個人に個がないから、自民党が安泰なのだということも分からないのですね。
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