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谷間の百合

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怒りが国をただす。(高村光太郎)

きのうは2・26から80年だったそうです。
それでもまだ事件に参加した部隊にいた人が99歳で生存していて当時のことを語っていました。
わたしは関連の本を読もうかなと思いましたが、結局手にとることはしませんでした。
わたしは、自分が持っている本の内容はほとんど諳んじていると言ってもいいくらいなので、いまさら読むこともなかったのです。
(わたしの読書がいかに偏っているかということです。)

青年将校をテロリストだと言って切って捨てる人がいます。
だったら何だったのですかと訊き返したくなります。
テロリストということで今の人がイメージするのは、アルカイダやISなどの雇われテロリストでしょう。
とてもそれと同列に語ってほしくはありません。

わたしは、かれらの志が純粋だったなどと、それが事実であっても言うつもりはありません。
しかし、考えてみると、歴史はテロによってつくられてきたとは言えないでしょうか。
失敗しても成功しても、それによって時代が動いたのは確かです。

戦国時代、天下を取るために繰り返されてきた合戦もテロリズムと言えなくはありません。
相手方の大将の首をとるのは手柄だったではありませんか。
ああいう歴史を面白がる人に、テロを非難できるでしょうか。
かれらはそういう歴史をまるで絵巻物を鑑賞するような気持ちで見ているのかもしれませんが、わたしにとって歴史はいつも生々しい。


怒りが国をただす。(高村光太郎)_c0243877_113208.jpg


青年将校の行為は日本が近代国家であるために否定されただけではありませんか。
しかし、人間の本能や衝動は変わることはなく、歴史は繰りかえすのです。

人間が決死の行動をとるには、平野國臣ではありませんが、桜島の噴煙がうすいと思えるくらいの内的マグマがなければなりません。
高村光太郎は「怒りが国を匡す(ただす)」と言いました。
それほどのことでなくても、国民の怒りが形をとるところまでいかないともう日本を救うことはできないと思います。

主権在民が民主主義の基本です。
その主権を行使できる唯一の機会が選挙です。
一票で何も変わらないのではなく、その一票がなければ何も変わらないということです。
国民の怒りを示す唯一の機会をむざむざ放棄してはいけません。
選挙にも行かないしテロ(クーデター)も否定では、もう独裁国家になるしかないではありませんか。


怒りが国をただす。(高村光太郎)_c0243877_14295287.jpg










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by michi-no-yuri | 2016-02-27 11:36 | Comments(0)
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