SEALDs代表の奥田愛基さんが、集会が終わったあと、これからバイトです、それが基本ですからと言うのを聞いて、ああ、これが現代っ子の限界なのかとちょっと白けた気持ちになりました。
おそらく、どこかで、だれかに、運動もいいけれど生活が基本だよ、それでこそ地に足が着いた運動と言えるんだよ、と言われたのかもしれないなと推測しました。
しかし、生活や家族という重荷を負っていない学生がすでに生活に縛られている現実が、社会が閉塞というより窒息状態にあることを示していないでしょうか。
そして、その状態を突き破る力がどこにもないということです。
勝手なことを言わせていただければ、野宿したっていいではないか、一日二日食べなくったっていいではないかと思うのですが、そんな発想も突き動かされる力もないようです。
アナキズム研究家という肩書を持つ栗原康という人が
「国家のミニチュアになってはいけない」と題して、「クールなデモより人間本来の「暴力」を取り戻す必要性」があるのではないかと問題提起しておられます。
栗原さんによると、「暴力(暴れる力)とは人間が日常的に持っている生きる力」だということで、言われてみれば、これだけ酷い政治に対しても国民の中から煮えたぎるような怒りが出てこないのは、「生きる力」が減退しているからなのかもしれません。
栗原さんが次のように言っておられることはわたしも痛感していることでした。
電車から
「学生がやっているというので威勢がいいのかなあと思っていってみると、人は多いのに統制が凄い。
「きれいに並んでください」なんてコールしている。
「なんでこんなことを言われなきゃあいけないんだ」
メディアを意識して、自分たちは平和でクールにやっていると見せなきゃあいけない。
自主規制している。
もっと怒りを表現していいのに、自分たちでミニチュア国家になって抑えちゃっている。
警察の規制が凄いのは分かるけど、わたしは羊の群れのように統制されるのは耐えられない。
リーダーの言ったあとに唱和するのも嫌だな。
屈辱のようなものを感じるのですが、そういうとき脳裏をよぎったのが、やっぱりみんな日本が植民地であってもいいんだな、独立なんてどうでもいいんだなという諦めにも似た感慨でした。
(しかし、わたしもデモに参加すればみなと同じ行動をとるでしょう。)
栗原さんは、生きる力=あばれる力がない原因として「就活」を挙げておられます。
クールに見せなきゃあ。
笑顔できちんと問われたことにコミュニケーション能力を駆使して答えなくてはいけない。
労働倫理に縛られてセルフマネージメントをやらされているのが現状で、その根性がデモにまで及んでいて、それなら、いったん「働かない」という前提から行動を起こしてみるのがいい。
しかし、社会も家族もそれを許さないという空気があるから「働かない」という選択肢はないに等しいのです。
だから、奥田さんはバイトをするのです。
就活を言う前に、戦後の型にはまった教育が問題なのではないでしょうか。
競争させられる一方で、みんなといっしょでなければならないという社会の空気があって、そのいびつな環境のなかで育ってきた子どもがどうなるかということなのです。
平和や民主主義も誤って伝えられている面が大きいように思います。
平和教育の下、暴力=絶対悪ということで、栗原さんの言われる生きる力まで失ってしまったのではないでしょうか。
それがかえって「いじめ」の温床になっているということはないでしょうか。
国家の暴力の前で、暴力は悪だと信じ込まされてきた国民が自己規制しながら声を上げているのです。
生きる力を奪われ「日常」の延長でしか行動できない国民を尻目に、国は戦争という非日常を用意しています。
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