人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

谷間の百合

taninoyuri.exblog.jp

二日 その二  「謀略」はわたしたちの日常のとなりで日々起こされている。

「反戦な家づくり」に書かれているように、陰謀とか謀略とか聞くと、映画にでてくるような国際的なスパイ組織を連想する人が多い。
「謀略」は、わたしたちの日常の隣で日々起こされているのに、それをまったく知ることも感じることもしない人たちによってぬくぬくと生き続けるのです。
なぜかリアリティが持てないようです。
殺されたり、失脚させられたり、冤罪を仕掛けられた人は枚挙にいとまがないというのに。

いまも、憲法改正に向けてさまざまな謀略が考えられているのはずです。
直近の例ではハロウィンが官邸とCIA?によって盛大に喧伝されたことがあります。
もう、古くなりましたが植草さんは謀略によって冤罪をしかけられました。(ノックさんもそうです。)
小沢さんも謀略の犠牲になりました。
政界、マスコミが連日「説明責任」を求めていましたが、もう忘れられています。
小沢さんや植草さんの忍辱は常人の限界をはるかに越えるものだったろうと想像します。
いまも官邸、政界では分刻みで謀略が考えられていることでしょう。
政治の世界を、「一寸先は闇」だというのはそういうことです。

重箱の隅をほじくるようにして、アイツはどこそこの工作員だとか言って分かったつもりになっている場合ではないのです。
賢く敏感にならなければほんとうに国が無くなります。


二日 その二  「謀略」はわたしたちの日常のとなりで日々起こされている。_c0243877_1455225.jpg


本気で連携していくためには(反戦な家づくりより)

この世は謀略だらけだ。

謀略と聞くと、ハリウッドでつくられる荒唐無稽なスパイ映画を思い出す人もいるだろう。

もうちょっと情報通の人は、ユダヤの云々 という、秘密組織が世界を牛耳っている的な話を耳にしたり、信じているかもしれない。

しかし、謀略というのは、歴史を振り返れば、ごく普通の国家権力が、ごく普通に行ってきたことだ。
これを、荒唐無稽のSFや、得体の知れない秘密組織に仕立ててしまうことは、かえって普通に行われている謀略を見過ごし、だまされる結果になる。

そもそも、謀略で始まらなかった戦争はない、というくらい、20世紀に入ってからの戦争は謀略だらけだ。
かつての日本の柳条湖、上海、盧溝橋などの「事件」と称されているものは言うに及ばず、謀略を使わずに、正面から「戦争始めるぞ」と言って始めた戦争を見つけるのは難しい。

戦争に限らず、政治や経済のありとあらゆる場面で謀略ははびこっている。
例えば、景気対策と称して巨額の公金を株式にぶち込んで、株価だけつり上げるのは謀略ではないのか。
消費税は福祉に使いますと称して、それ以上の額の法人税を減税するのは、謀略ではないのか。

マスメディアと一体となった謀略は、ほぼ全ての政策において仕組まれているといっても過言ではない。

かつて、80年代までは、こうしたウソとダマシの政治もあったけれども、そればかりではなく、むしろアメとムチの政治の方が主流だった。悪政にはアメをセットにして妥協させる、という手法だ。
しかし、80年代をとおして新自由主義に侵され、外資(国際金融資本)に富が流れ出し、アメを用意する余裕がなくなった日本では、もっぱらウソとダマシが主流になった。 全国民向けにアメを用意するよりも、マスメディアを籠絡するほうがはるかに安価に済むからだ。

かくして、この国も世界標準=謀略だらけの国になった。

■■

しかし、こうした権力者が直接ふりまわず謀略は、まだわかりやすい。
一度気が付いて、よくよく疑い深く見ていれば、どれもこれもウソだと言うことを見破ることはできる。

問題は、「善く見える」謀略だ。
一番良い例は、アラブの春だろう。

前の記事でも書いたけれども、いかに親米政権であっても、独裁者が調子に乗りすぎて制御できなくなった時は、排除される。
まして、反米政権であればなおさらである。
CIAというのは、別に映画の世界ではなく、ごくごく当たり前に業務としてそういうことをずっとやり続けている。

そして、最近の際だった特徴は、CIAの出先機関は、「正義の市民」の姿をとることがある、ということだ。
たしかに、独裁者に抵抗するのだから、ほとんど誰も違和感を抱かない。

しかし、そこには一つの明確な特徴がある。
自分たちを越えて「過激」に変革を望むものを、徹底的に排除するということだ。
そして、往々にしてインテリ中心主義である、という傾向もある。

エジプトは、まさにそうした経過をたどった。
「制御できなくなったムバラクを排除する」というCIAの目的をはるかにこえて、ムスリム同胞団のムルシ大統領が合法的に誕生してしまうという事態に対して、「リベラル」派と称する「市民」がデモを扇動し、軍のクーデターを支えた。
かくして、エジプトは「無事」に傀儡政権が復活した。

こうした経験から私たちは、もう一段感覚を研ぎ澄ます必要がある。
一見すると正義の市民であっても、本当の立ち位置がなんなのか、よくよく見極める必要がある。

■■

その際に、私なりの考えを列記しておく。

①二面性をちゃんと見る。 アラブの春も、一方的な謀略で悪い面ばかりではもちろんない。やはり独裁に耐えかねた人民の怒りや願いがそこにはあったのであり、いかに謀略が混じっていたからといって、その全体が不純なものであったわけではない。

②既存の運動との連携。 これまで細々とでも続けてきた市民運動や労働運動などとにどのような関係を持とうとしているか。批判はもちろんあっても、これまでの歴史にリスペクトがあるか。

③参加階層。 極端なインテリ中心主義になっていないか。まったく一般の人々が、観客ではなく主体的に参加していく道が用意されているかどうか。

④できすぎ感。 話がうますぎないか?という単純な疑問。

例えば、オール沖縄の運動に対して、非常に懐疑的な人がいる。
私も、最初はかなり慎重に情報を集め、上記のような観点でよくよく考えてみた。
その結果として、翁長知事は本物だと判断し、応援しようと思った。

また、小泉純一郎の反原発についてもそうだ。
これもよくよく考えて、そしてこちらは私はクロだと判断した。
小泉純一郎が欲しいのは、脱原発であると同時に、使用済み燃料の最終処分場なのではないか、と私は思っている。

しかしそれでも、二面性を評価するという意味で、コイズミが関わっている脱原発であっても、あたまから排除するべきではないと思うし、その功罪を判断しながら、個別に連携するべき時は連携すればいいのだと思う。

■■

このように、今の社会は、きわめて入り組んでいて複雑だ。
中東の状況を一口ではとても説明できないのと、実は同じような複雑さが日本にもあるのだと感じている。

だからこそ、できるだけ広く連携するためには、むしろ自分のコアをちゃんともっておくことだ。
これは変えない、ここに帰れる、そういうコアを持っていないと、運動に翻弄され、引き回しや裏切りに絶望してしまうかもしれない。

いや、そうやって絶望させることこそが、謀略の目的なのではないか。

わたしが、山本太郎を旗頭にして、組織を作るべきだと主張しているのは、そういうことだ。
それぞれのコアをしっかりと持つことが、謀略にあふれるこの世の中で、大胆に広く連携していけるキモなのではないだろうか。


二日 その二  「謀略」はわたしたちの日常のとなりで日々起こされている。_c0243877_14554286.jpg










×
by michi-no-yuri | 2015-11-02 14:56 | Comments(0)
名前
URL
削除用パスワード
<< あの世はすべて人の想像力の中にある。 二日 その一  希望を失うとこ... >>