サンケイが、戦後70年のキャンペーンの一環として「大空襲」の記事を連日掲載しています。
きのうはTBSも「私の街も戦場だった」という番組で、米軍の戦闘機に取り付けられたガンカメラによる生々しい機銃掃射の映像を元にした再現ドラマやパイロットの証言などを取り上げていました。
70年という節目のことだから、こういう日本側の被害も取り上げたかもしれませんが、わたしには別の感想も浮かびました。
戦後70年の談話が発表される前に、日本だってこんな酷い目に合っていたのだということを強調して、侵略や加害者の面の印象を薄める目的もあったのではないかと思ったのです。
原爆はまさに地獄でした。
日本人がその地獄を魂のレベルで認識していたら、原発の建設も再稼働もあり得ない選択でした。
唯一の被爆国が放射能を撒き散らし、汚染水を垂れ流して、なお再稼働をするというのです!
世界に認知されていた「平和国家」のイメージは1人の人間によって水泡に帰しました。
天皇陛下はじめ歴代の総理大臣が繰り返してきた近隣諸国への謝罪も1人の人間によって水泡に帰しました。
この70年を一人の人間が無にしました。
こんな天をも恐れぬことがどうしてできるのか、わたしは言葉もなく天を仰ぐばかりです。
訪日中のメルケル首相が脱原発を促しても、総理は昂然として再稼働を宣言しました。
ドイツがフクシマの事故を受けて即脱原発に舵を切ったのに、事故の収束もできない日本が再稼働をするというのです。
福島の人々から生きる希望も健康も命も奪っておきながら、、、
さらに、オリンピックをするのだそうです。
わたしはできないと思っています。
1940年の「幻の東京オリンピック」と余りにもよく似た経緯を辿っていることにわたしは戦慄すら感じます。
きっと、そのときと同じように「返上やむなし」となることでしょう。
総理が大嘘までついてオリンピック招致に拘ったのは、ドイツのヒットラーや戦前の日本がそうであったように、「国威発揚」です。
日本人の誇りや高揚感を極限まで高めて戦争に向かわせるためです。
メルケル首相は、ドイツがホロコーストにも関わらず国際社会が受け入れてくれたのは「きちんと過去と向き合った一方で、連合国が過去を克服するドイツを見守ったからだ」と言いました。
過去と向き合うことがどれほど苦痛を伴ったことかと想像します。
日本人がその苦痛に耐えられないほど精神が脆弱だとは思いたくあありません。
しかし、過去を克服するドイツを見守ったという「連合国」も、いつかは自分たちの過去と向き合わなければならない時がきます。
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