きのうの「酔生夢人のブログ」に、悩むことの意義と無意義について書かれていました。
恥を晒すようですが、わたしは、「悩む」ということがどういうことなのか分からないまま今に至っています。
ある文学者が、人生に悩み、自殺を考えたことがない人間は人間として欠陥があるというようなことを書いていたのを読んで落ち込んだり、ある知的な女性が死ぬほど悩んだと言ったのを聞いて、劣等感を覚えたりしました。
(酔生夢人さまは「私自身は悩み多き青春時代を送った人間だ」ということですが、具体的に書いていただけたら有難いと思いました。)
「トニオ・クレーゲル」は忘れましたが、確実に言えるのは、わたしはトニオ・クレーゲルが憧れと羨望をもって眺めていた「悩まない(幸福な)人々」の部類に入る人間だということです。
いろいろ考えてそうではないかと思ったのは、わたしが悩むことがなかったのは「競争」と「選択」から免れていたからではないかということです。
受験、就職(していません)結婚と、何も考えずに通り過ぎてきました。
養護学校に勤めている息子が、生徒たちは決して不幸ではない、むしろ幸せに生きていると言ったことがあり、それをふと思い出しました。
そして、やっぱり!と思いました。
生徒たちは「競争」や「選択」から解放されているのです。
自由なのです。
それにしても、限られた人生のうち、人びとはどれだけ競争と選択に時間とエネルギーを消費させられていることでしょう。
これが資本主義ですか。
新自由主義ですか。
人々は自らの意思で競争し選択しているのではなく、競争させられ選択させられているということではありませんか。
わたしはごく早い時期にそれから降りていたのです。
正しくは落ちこぼれていたのです。
養護学校の生徒が保護を必要とするように、わたしもまた親や夫の経済的庇護を必要とし、その下でぬくぬくと生きてこられたのです。
悩むことは分かりませんが、いつもわたしのこころを占めているのが「かなしみ」です。
死んでしまいたいと思うほど「かなしみ」がつのることがあります。
もちろん、自分のことではありません。
こう言えば、乱暴かもしれませんが、悩みが自分自身のことなら、かなしみは外部に起因するものとは言えないでしょうか。
こんなことを言えば、わたしがいかにも利他心に富んでいるように聞こえるもしれませんが、決してそうではありません。
利己心があるから、利他心を求めるということだと思います。
わたしが「競争」がよくないと思うのは、ものを見たり、観察したりすることがないからです。
何も見ないから人の苦しみや悲しみが分からない、、
近江富士
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