舞鶴女子高生殺害事件で殺人の罪に問われていた中被告の無罪が確定しました。
疑わしきは被告の利益にという法の精神に基づくものなら歓迎すべき判断ですが、はたして事実はどうなのでしょうか。
もちろん、わたしはかれを犯人だと言っているわけでも言いたいわけでもありません。
言いたいことは別にあります。
無罪になったのは、目撃者の証言が信用できないこと、防犯カメラに写っている映像が余りにも不鮮明で人物を特定するには無理があるという二点が根拠になっています。
実に正当な理由です。
しかし、その当たり前の正当な理由がいままでまったくと言っていいほど斟酌されてこなかったのです。
明らかに、警察の誘導と思しき証言や曖昧なおかしな証言が多く採用されて無実の人を苦しめてきたのです。
被告側の主張はことごとく退けられて、無念の涙にくれた人がどれだけいたことでしょうか。
なぜ、今回だけそれが免れたのでしょう。
不思議に思いました。
昭和の喫茶店
わたしは、かれは根っからの悪党ではないかと思いました。
その「悪」の力に、警察の悪が負けたのではないかと思いました。
同じ悪党はより強力な「悪」の前にひれ伏すものだからです。
もちろん、これはわたしの推測に過ぎず、だからかれを犯人だと言っているわけではありません。
世の中は声の大きいものが勝ちます。
理不尽だろうが何だろうがそれをゴリ押しするものが常に勝つのです。
日本はそういう人間によって浸食されました。
物理的な浸食に留まらず、文化、伝統、歴史にいたるまで浸食され凌辱されました。
日本人はそういう「悪」に立ち向かうどころか、悪に取り入り、かれらが力に任せて自分たちのものにしていった甘い蜜に群がったのです。
悪の前にひれ伏したのです。
そういう人間が日本の中枢にいて政治を壟断しているのです。
それがいまの日本です。
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