きょうの記事を、「今年もまた狂おしい季節がやってきました。」と書きだそうと思っていたら、すでに書いていた人がいました。
岩下俊三さんのブログです。
「左翼過激派が問う『敷島の大和心』」だそうです。
ほとんど書き足すこともないのですが、感想として思ったのは「過激派とサクラ」の組み合わせも悪くないということでした。
(岩下さんという人のことはまったく知らないのですが、わたしには悪ぶってというか、左翼過激派ぶっておられるようなところがあるような気がするのであまり信用していませんw)
さくらと言えば特攻隊なのですが、過激派の過激が見るものをしてもの狂おしくさせるさくらと重なるところがあるからなのかもしれません。
今年は花見に行きたくないような気がします。
かくも無法な世に、かくも転変極まりない世に、変わることなく美しく可憐に咲いて散っていくさくらを見るのはあまりにも辛いことです。
3・11のあと、喫茶店で見た週刊誌のグラビアで、福島の桜の名所に咲く見事なさくらを見て、涙がとまらなくなったことを思い出しました。
だれも見るひとがいないのに、無心に咲いているさくらが愛しくて哀しくて。
再び狂おしい季節がやってきた。
子供の時から青年期まではこの花のなまめかしさに精神が穏やかでいることが出来ず、壮年期から老年を迎えた今となってもどこか口惜しい焦燥感が漂っている。
毎年僕を困らせてなお輝いている恋人とやっと会えたかと思う間にすでに死の予感があり、そしてその通りまことに華麗にはかない命をすぐに失うのである。悲しくて空しくてだから充実した瞬間(とき)。
僕はいつもこの季節を恨みそしてこよなく愛してしまう。
ものほしそうな顔をせず、大騒ぎで自己主張せず、人を殺すより己を殺し、質素倹約余計なものはもたず、自然と折り合いをつけ、清潔で慎み深い「筈」の日本人は明治以降あの野蛮で獰猛な覇権主義の欧米に急き立てられ「鎖国」を捨ててしまったが、桜の花だけは強欲競争社会に堕した日本の景色に「も」可憐に咲いて散るのである。
だから江戸はおそらく世界で一番文化的な都市であっただろうし、山深き鄙にあっても自然と共生した山里の穏やかな暮らしがあったのだろう。
「足るを知」っていた日本人は決して自然を破壊しないで人間だけでなく生き物をなるべく殺さない生活を営んてきた。それが明治以降野蛮な外国人にとりわけ第二次大戦後はアメリカに騙され変容し続けてきたのである。
そして世の中に「武士」がいなくなり、「百姓」や「町民」もいなくなってしまった。僕の尊敬する池波正太郎先生が描ていた江戸時代の情緒は今もうどこにもない。
けれど、
今年もまた、くるおしい妖艶な季節が「日本」に巡ってきた。
吉野山 (去年)
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