兄の蔵書の大半は専門書なのですが残り半分は近現代史、とくに昭和に関連するものが殆どです。
いつだったか、わたしが兄に「山本五十六ってアメリカと通じていたらしいよ」と言ったら、なにを言うかバカモンが!という顔で睨まれました。
しかし、わたしが独り言のように、これらの本の中にどれだけの真実があるのかなと言ったのは理解できなかったようで黙っていました。
歴史は信じないというのがわたしの信念みたいなものですが、卑近な例で言えば、副島さんがお釈迦さんは輪廻転生を否定していたと断定されたことが新たな歴史をつくっていくかもしれないということでも分かるのではありませんか。
こういう個人、あるいは組織の思いつきや悪意によってどれだけの歴史が捏造されてきたことでしょう。
もう、いい加減にしてくれませんか。
竹原信一さんは知識は誤解だと言われました。
誤解の断片が歴史になっていくということではありませんか。。
意識して嘘をばら撒く人、
無意識に嘘を垂れ流しているひと
、
世の中、右を向いても左を見てもうそばっかりです。
それなのに、どうして歴史が真実でありえましょうや。
さっき、芥川龍之介の「藪の中」を思い出していたのですが、
(小説は読んでいません)結局、真実は何だったのでしょう。
あるファクトがあって、それを見る人はバラバラな印象を語ります。
つまり、初めから混乱と誤解があるということです。
奈良公園にて。
娘が五歳くらいのとき、知らないおじさんが遊んでくれたそうで、それを娘が「いいオッチャンだった」と言ったのを、たまたま来ていた姉が聞きとがめて「いい加減なことを言うものではない」と厳しく叱ったことがあります。
「オマエはその男の人の何を知っているのか」と。
最近になって、この姉の言葉が思い出されます。
先日も、兄の告別式で、初めて会う人たちへの予想や予断がことごとく外れていたことからも、もう、これからはだれに対しても、何に対しても予断は持つまいと思いました。
それはわたしにとって難しいことではありません。
兄の膨大な書物はお弟子さんに貴重なものだけを選んでもらい、あとはきれいさっぱりと処分するということを聞いてわたしは大いに安堵しました。
兄はいい息子を持ちました。
父親の貪りや執心を、息子が一刀のもとに処断してくれたのです。
最高の供養ではありませんか。
わたしは、わけもなくこれで兄の人生は完結したのだと思って感動しました。
作りかけの「戦艦大和」のプラモデルも処分されるのでしょう。
それがもともとの「大和」の宿命だったのです。
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