パソコン自体ではなく、設定ミスで記事画面が安定しないことがスゴいストレスになっているのですが、これはブログの閉鎖の潮時だというサインかもしれないなと思ったりしています。
わたしは知らないのですが、ブログの閉鎖が相次いでいるそうで、夜明けがくるにしても、その前の混乱や弾圧を考えると、ほんとうにもう潮時なのかもしれません。
こんなちっぽけなブログでも、体制側でないことははっきりしています。
きのうは、もう体制批判はしないから、最後に安部総理の顔が大嫌いだと思いっきり叫ばせてほしいと思ったりしていましたw
それも体制批判になるのでしょうか。
先日も、娘に「安倍総理を男として好きな女性がいるだろうか」と言って「またそんな極端なことを言う」という顔で睨まれましたが、いつもこういう感じで娘にたしなめられているのです。
きょうの「徽宗皇帝のブログ」に、キング牧師が刑務所から送ったと言う手紙の一節が引用されていました。
「悪意ある人びとの憎悪に満ちた言動だけでなく、善意の人びとの驚くべき沈黙もこの時代に悔い改めなければならない」
善意の人の沈黙にも、分かった上での沈黙と無知による沈黙の二通りあると思うのですが、どうしようもないのが無知の沈黙で、それをしも善意と言っていいのだろうかと思ったりします。
わたしは、善意というものを信じません。
善意の人の憎悪に満ちた言動がイチバン怖いと思っています。
もう、善意も常識も理性も信じなくなりました。
「理性」と「正気」の違いを自分なりに考えてみたのですが、「正気」は外部にあるもので、「理性」は内にあるものという分類は可能でしょうか。
「正気」は自分の勝手にはできませんが、「理性」は自分で制御できるものとはいえないでしょうか。
きのう、ふと「きりしま事件」のことを思い出していました。
戦争中の弾圧事件です。
「溶岩に 苔古(ふ)り椿 赤く咲く」
という句が共産主義を賛美するものだとして作者が検挙された事件です。
(もう一人の人の句は割愛します)
赤=共産主義ということから、椿の赤い色がやり玉にあがったのです。
これから、こういう冗談のようなことが冗談ではなく頻繁に起きるのだろうと思います。
弾圧する側は弾圧が目的なので、その間に人間らしい感情は介入しません。というか、もともと感情がありません。
先日NHKで、GHQの検閲に関わった日本人のことを取り上げていましたが、ただ文書や手紙のなかに指定されたキーワードをチェックするだけの作業のようでした。
これからはどういうキーワードがNGになるのでしょうか。
おそるべき社会の到来です。
人間はどこまでも愚かにも残酷にもなります。
わたしは、十代の終わりに、警察で取り調べを受けている夢を短時日のうちに二回見たことがありました。
何を訴えても取り合ってもらえないことに、身をよじり、泣き叫びながら目が覚めたことをいまでもはっきり覚えています。
ゼッタイに、なにを言っても無駄だということを、そのとき身に染みて知ったのです。
あれは、前世の記憶だったのでしょうか。
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