飯山一郎さんのこのたびの行為は、当該者ではない人間にとっても「瓢箪から駒」「寝耳に水」で、まともな人間の感覚からすれば、それだけで社会的信用を失うような暴挙だったと思います。
それでも、あえて執拗に中傷を繰り返されるのは、よほどご自分の「権威」に自信を持っておられるからでしょうか。
ところでわたしは、飯山さんが「人間は肉体的(主に脳)物理的な存在なのである!」と書いておられることに驚嘆しました。
本気ですか?
わたしはもし自分がそういう考えをしていたら何も考えられないし、一行の文章も書けません。
以下にきょうの「酔生夢人のブログ」を転載します。
〈自分という現象の残響をキャッシュに残す 〉
「独りファシズム」から転載。
《文章が読みづらいので「独りファシズム」はあまり読まないのだが、「文殊菩薩」に転載されていた今回の記事は面白く思った。
書かれた内容自体はこれまで何度も書かれてきたよう
いよいよ秘密保全法が国会審議に入り、時代は暴力的転換点に立ち、自由言論は終焉を迎えようとしているのだが、残された時間の中で可能な限りを綴り、そのいくばくかを皆様に共有して頂きつつ、自分という現象の残響をキャッシュに留めておきたいと思う。
バラモンの聖典が教えるように「言葉のなかに全ての創造物が生きる」のであり、言葉だけが未来の手がかりなのだ。
という部分には「白鳥の歌」の響きがあり、哀切さが漂っている。
「自分という現象」は宮澤賢治の詩集の序文に出てきた言葉だと思う。
「因果交流電燈の青い光に明滅する自分という現象」とか何とかいう文言だったか。
引っ越しのたびに蔵書を捨ててきたので手元に本がまったく残っていないのが残念である。
バラモンの聖典にあるという「言葉のなかに全ての創造物が生きる」という言葉も素晴らしい。
まさに私も「言葉だけが未来の手がかりなのだ」という思想に賛同する。
人はなぜ発言し、記録を残すのか。それは自分という現象の残響をこの世にとどめたいからだろう。
その因果交流電燈の青い光はやがて未来の「別の自分」を明滅させるのである。》
わたしが「独りファシズム」を敬遠しているのは、ひとえに根気がないという理由ですが、酔生夢人様が言われるように読みずらいということはあっても決して難解だとは思いません。
わたしが言うのは僭越極まりないことですが、思想も姿勢も構文も「かちっ」としている文章は決して難解ではありません。
(世間には意味不明の難解な文章が多々ありますが)
このお二人の文章をわたしは「人間は物理的な存在」だと思っていたら書けないのではないかと思うのですがどうでしょうか。
宮澤賢治の「因果交流電燈の青い光に明滅する自分という現象」(よく覚えておられますね。)という言葉も「人間は物理的な存在」だという思考からは決して生まれてこないのではないでしょうか。
それにしても、最後の三行はとても魅惑的です。
書いたものなど残りません。すべて消滅します。
それでも書くのは、なにかに書かされているということではないでしょうか。
先日、息子が電話で用件を伝えたあと
宮澤賢治って、この世に頼るものなどなにもないということをよく言っているねと言いました。
それで、わたしもまた読んでみようと思っていたところでした。
×