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谷間の百合

taninoyuri.exblog.jp

すべてはつねに新しい

(きのうの記事を削除して書き直したものです)

わたしが政府が進める観光事業に反対なのは、遺跡や遺物など古いもので日本をアピールするのは日本の国柄の否定になると思うからです。

そういうことを考えること自体が日本の衰退なのです。

日本はそんな国であってはいけないのです。

伊勢神宮の神様のお引越しも無事終わりましたが、なんと二十年毎の遷宮の意味は分からないのだそうです。

そうではないかと想像で言われているのが、新鮮さと技術を永久的に保持するためというものです。

最初そう聞いたときは、そんなことなの?という印象でしたが、後になってそれがどういう意味をもっているのかを思いめぐらしたとき、深遠な意味があることは分かったもののそれ以上の理解はできませんでした。

わたしに分かったのは、清潔や清浄を尊ぶ国民性と、「ものづくり」に対する心構えと情熱こそ日本人の精神の精髄ではないかということでした。

日本人の技術の優秀さは、たんに手先が器用だとか勤勉だということで説明がつくものではななく、その淵源は伊勢神宮の神々の知恵から発していたのではないかと思いました。

あらためて、神々がリアリティをもってわたしたちと繋がっていることを感じます。

伊勢神宮は一応宗教施設ということになっていますが、宗教を定義する教義はありません。教祖もいません。

遷宮の意義を書き記したものも存在しないのです。

これってすごいことではないでしょうか。

あるのは「かたち」だけなのです。「慣わし」だけなのです。

わたしはその「かたち」が日本人の精神の規範になりあらゆる行動様式の美の源泉になっているのではないかと思いました。

「くにのかたち」がどんなに歪められ汚されても、伊勢神宮は変わらずそこにあります。

それが多くの日本人がお伊勢さんにひきつけられる原因なのではないでしょうか。

日本の神々は何もおっしゃらない。

脅したり強制されることはありません。

天皇陛下も何もおっしゃいません。

それは国民の自由を守るためです。

陛下が何かをおっしゃると必然的にそれによって利益(満足)と不利益(不満)を被る国民に分かれます。

そして、そこから齟齬や対立、争いが生じるのです。

日本の神も天皇も信じる対象ではありません。

信じる、信じないという低い次元の存在ではないということです。

何かを信じることから争いが起きます。

1人ひとりが自分の信じるものに囚われているからです。

  飛鳥のカフェ
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きのう、西行が伊勢神宮を拝したときに詠んだうた

「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙のこぼるる」

について考えていました。

「なにごと」という言葉が気になったからですが、「なにごと」と言えば対象は人間でも神でもありません。

超自然的なもの、あるいは「気配」のようなものを西行は「なにごと」と表現したのかなと思いましたが、どうなのでしょうか。

つまり、実体も概念もないということです。

ちなみに、伊勢神宮はお坊さん禁制だったということで、西行も宇治橋を渡ることができず五十鈴川の対岸から拝んだということです。

死を穢れとすることから葬式にたずさわるものを嫌ったということですが、わたしはそれだけではないように思います。

外来思想を嫌ったということではないかと思ったのですが、それは忌避や排除ということではなく、あくまで清浄を守るためだったのではないかと。

わたしのこころを魅了して止まない次の二つの言葉は、いみじくも遷宮の意義を彷彿させるものでした。


「すべてのものは生きている、すべてはつねに新しい。
だから、わたしはなにも信じない」 (竹原信一さんのツイッターより)

「変わらずに生き残るためには変わらなければならない」

宇宙の法則である創造と破壊を体現している式年遷宮が包含する世界観を、わたしはどんな言葉をもってしても言い表せません。

人類が創造したものでこれに優るものがあるでしょうか。









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by michi-no-yuri | 2013-10-09 15:23 | Comments(0)
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