石破さんがクリスチャンだということに納得できなくてwいろいろ考えてしまいました。
はやい話、わたしは宗教は不要だと思っています。
これほど人を誑かし、世に偽善と狂気を蔓延らせるものはありません。
わたしは何も信じないと言いましたが、宗教はその筆頭です。
わたしが宗教やスピリチュアルから遠ざかり、近づけなかったのはなぜだろうと思ってきたのですが、一つには分かったつもりになっている人を見るのが嫌なのと、何を話しても、宗教の言葉、スピリチュアルな言葉が返ってくることにイライラしていたからかもしれません。
わたしも宗教を求めなかったわけではありません。
それは宇宙の法則や真理を知りたかったからで、信じるものを求めていたわけではありません。
まして、教義や戒律を求めたわけではありません。
戒律なんか要りません。
戒律がより多くの偽善と狂気を生むからです。
本然の姿に還ればいいだけです。
長い間、わたしは自分のことを良くとれば柔軟性、フレキシビリティがあるいうことになるのでしょうが、わたしはそうは思わず、なんと芯のないクラゲのような人間かと嘆かわしく思っていました。
信念とか自分の考えに自信を持つことはできませんでした。
むかし、ホロスコープで見てもらったことがあるのですが
「あなたはとても寛大?なので、自分の意見についてしっかりした立場をとるのは難しいでしょう」と出ました。
気が弱くてお人好しなところを寛大だと言ってくれたのかなと思いましたが、ほかにも思い当たることばかりでした。
唐突ですが、
美しい空があり、
美しい花が咲いている、
それに付け加えるなら、
what a wonndafuli worldにうたわれているような
赤ん坊の泣き声と、人々が交わす「お元気ですか」の挨拶の声。
これだけで十分ではないでしょうか。
すべてのものは生きている。
すべては常に新しい。
だから、わたしは何も信じない。
日本には八百万の神がおられます。
そこには「信じる」とか「戒律」はありません。
こないだ、そういうことを考えていたときに、つむじ風の飄平様が「祈り=意宣り」だと言っておられたことを思い出したのですが、その直後にブログを覗くと、なんと「意宣り」という言葉が使われていてその同期性に驚ろきました。
日本人が八百万の神々に対して抱いていたのは
「畏れるこころ」「感謝のこころ」そして「意宣り(言葉、つまりこころを供養すること?)」だけだったのではないでしょうか。
何かを信じた途端に、こころはそこで留り、固まってしまいます。
「すべては常に新しい」ということが否定されてしまいます。
自分を芯のない人間だと思っていたのは正解だったのではありませんか。
わたしが一つところに停滞せずに生きてきた証しではないでしょうか。
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