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谷間の百合

taninoyuri.exblog.jp

「よそ見してたら 泣きを見た」

藤圭子さんの「夢は夜ひらく」の歌詞で耳に残っているのは三番くらいまでで、今回、六番までの歌詞を知って、とても身につまされるものがありました。

五番は

前を見るような柄じゃない

うしろ向くよな柄じゃない

よそ見してたら泣きをみた

というのですが、まったくもってこれは自分のことではないかと思ったのですが、世間には同じように身につまされている人もたくさんいたのではないでしょうか。

しかし、わたしが違うのは「泣きを見ていない」ということです。

世間の基準や常識から見たら泣きを見たことになるのですが、私自身は
よそ見していてほんとうに良かった、もし、よそ見していなかったらと思うとぞっとするのです。

よそ見というのは、他に何か関心があったということではなく、何も考えていなかったということだと思います。

ほんとうに、わたしは何も考えていなかった。

だから、悩んだこともない。

目標も目的もなかった。

いずれ結婚したら、人生そのまま終わりまでいくのだろうくらいの考えしかありませんでした。

しかし、目的がないといっても何もしなかったわけではありません。

絵を習ったり、英語やフランス語を習いに行って、母に「お母さん、通訳になってお金を稼いであげるからね」とか言っていたものですが、それも一週間ともちませんでした。

わたしの場合は15,16,17ではなく、16,17,18だったと思いますが、とにかくわけもなく拗ねてよそ見をしていました。

しかし、いま、わたしはほんとうによそ見をしていてよかったとこころから思えるのです。

先日書いたことですが、人生の勝ち組を目指して、夏休み返上で夏期講習の特訓に励んでいた女の子に「よそ見」をするという神様からのプレゼントが届くことはありません。

「よそ見」こそ人生の醍醐味です。

それをいまの子どもは禁じられているのです。

勉強のできる子もできない子も等しく「よそ見」ができない仕組みになっていて、何も見ない、何も考えない人間を量産しているのです。

六番の歌詞は「一から十まで馬鹿でした」というのですが、まったくその通りでした。

だれかが女はバカだとかバカ女とか言っていると自分のことかといまだにドキッとします。

ブログを始めた当初に、わたしは自分のことを「白痴美」(美はつけたし)と言われたことがあると書いたことがありました。

わたしは自分が美人とも思っていないし、ましてや白痴なんかでは断じてない、トンデモナイことを言う奴だと呆れ憤慨したものでしたが、ナント、おそろしいことに、最近それが分かってきたのです。(ちなみに、白痴は死語になっているみたいです)

ソイツはわたしの本質をみていたのかもしれないということに思い当たったのです。

わたしはとことん数字に弱く、計算のできない人間です。

こうすればこうなるという計算ができないのです。

だから、必然的によそ見をするしかなかったということかもしれません。

言っても無駄でしょうが、子どもには「よそ見」をさせてやってほしいなと思わずにいられません。

わたしみたいになっても困るでしょうが、私自身は大正解だったと思っています。


「草木のように、いささかの努力も迷いもなく成長し、舞い落ちる落ち葉のようにーーまるで生まれていなかったかのように、未練も痕跡も残さずに消える」

と竹原信一さんが言われるような人生をまっとうできたらサイコー。


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      写真共有サイト「フォト蔵」から。ぴぴこやさんの写真を拝借。









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by michi-no-yuri | 2013-08-26 11:59 | Comments(0)
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