内之浦で、ロケット打ち上げ見ていた子供たちの顔のなんと可愛く活き活きと輝いていたことでしょう。
子どもたちにとって日本は誇らしい国なのです。
ロケットに日本と自分の未来の夢を託しているのです。
しかし、いま、子どもたちに希望や夢を語れる人がいますか。
ロケットに顔を輝かせていた子どもたちに、日本の未来を約束できる人がいますか。
事実かどうか分かりませんが、原発の地元で、たとえ奇形児が生まれようと原発だといった人がいたとか。
しかし、政治家はじめ、原発推進の人たちは口に出さずとも同じことを思っているはずです。
かれらにとって被害者はいつだって自分以外の他者なのです。
そういう人間は、人並みに口では子や孫は可愛いと言うでしょうが、嘘です。
なぜなら、子や孫のために考え方や生き方を変えられる人はいないからです。
自分の我欲をゼッタイに手放せないのです。
子を可愛くない親などいないというのも嘘です。
それどころか子どもを憎んでいる親もいっぱいいます。
だから、そういう親のエゴや無関心が政治に反映しているということがいえないでしょうか。
政治家に国への愛情や責任がないのも、そこに原因の一端があるとはいえないでしょうか。
どちらにしろ、もう政治を信じたり期待してはいけないのです。
殺されたって文句は言えないのです。
「阿修羅」より。
以下に転載するのは、
飯館村の前田地区の区長である長谷川健一さんが、ベルリンで「福島県の人々による報告」と題して講演されたものです。
≪私は、福島第一原発事故のヒバクシャです。
私の住む飯館村にプルトニウムが降ったのです。
放射能は目に見えませんが、もし見えるならば、私の体は今、ドイツの街を輝かせるクリスマスの飾りのように光っていることでしょう。
事故が起こってすぐ、私は原発がおかしい、何かが起こっているのではと強く思いました。
そして、新聞に三号基の爆発が発表された3月14日、私は慌てて村役場に飛んで行きました。
「原発はどうなっているのですか」と問いただすと、「大変なことが起きている。空間放射線量が40マイクロシーベルトを超えている」という説明を受けました。
驚いた私が部屋を出ようとすると、役場の人はこう言うのです。
「誰にも言わないでくれ。村長に口止めされているんだ」
しかし、私はすぐさま部落に帰り、言うなと口止めされたことなど気にせずに部落の人に危険を知らせました。
翌朝、3月15日の朝、6時半に地区の人が続々と集まって来ました。
そのとき、外は雨が降っていて、そのうち雪に変わりました。
後でわかったことですが、ちょうどその頃、飯館村の放射線量は100マイクロシーベルトを超えていたのです。
それを知らせてくれたのはジャーナリストの方です。
大勢のジャーナリストが村に来ていたのです。
私は、地区の住民に言いました。
「外にはなるべく出るな。どうしても出なければならないのなら、マスクをしろ。肌を出すな。外から帰ったら玄関で服を脱ぎ、風呂に入るかシャワーを浴びるかしろ。畑の野菜を食べてはいけない。換気扇を回すな」と。
そのとき、北西の風が吹いていました。
飯館村は原発からの放射能の風をまともに受けてしまったのです。
私は、ジャーナリストをかき集め、訴えました。
「飯館村を避難対象にしてくれ。どうか、それを報道してくれ」。
しかし、それはかないませんでした。
避難を希望する者がいるなら避難してもよいが、村は避難対象にならないと言われたのです。
ですから、一部の人しか避難しませんでした。
これは公式に発表された村の放射線量です。
3月15日の午前6時20分のところを見て下さい。
44.7マイクロシーベルト/時と書いてあります。
ジャーナリストから知らせてもらった数値は100マイクロシーベルト以上です。
なんという違いでしょう。
公の発表は正しい数値ではないのです。
嘘の報道をしているのです。
そして、国や県から、専門家達が次々に村にやって来ました。
みんな口々に、大丈夫だ、安心しろと言います。
しかし、その少し後に、今度は別の大学の先生のチームがやって来て、村中の放射線量を測りました。
先生は「おそろしい。こんなところに住んでいてはいけない。私達が集めたこのデータを村長のところへ持って行ってください。避難しなければなりません」と言いました。
しかし、村長は「このデータは公表しないでくれ!」と叫んだのです。
村長は村を守ろうとしました。
村をゴーストタウンにしたくなかったのです。
そのまま二ヶ月半もの時間が経過しました。
避難せずに住み続け、子ども達を被曝させてしまいました。
その後、村は計画避難区域に指定されましたが、その前日の4月10日には国の方から偉い学者がやって来て、安全だと言っていたのです。
それなのに、翌日の11日になると、「危険だ!避難しろ」と突然言われ、村民は怒りました。
私は酪農家です。
この写真は私が事故後に牛乳を捨てているところです。
毎日、牛乳を捨てました。
村が避難の対象となったとき、牛は連れて行ってはいけないと言われました。
私達は泣く泣く酪農を諦めることになりました。
この酪農家の奥さんは、牛が乗ったトラックを「ごめんね。ごめんね」と言いながら追いかけました。
そしてこの若者は、東京生まれで、どうしても酪農がやりたくて村へ移住して来た人です。
飯館で10年間酪農をやって、ようやく軌道に乗ったとき、それを諦めなければならなくなりました。
彼はそれが悲しくて泣いているのです。
飯館村では、村人がみんなで力を合わせ、良い村作りに励んで来ました。
日本一美しい村に推薦され、認められた村です。
その村が放射能に汚染されました。
そして、ある日、私がもっとも恐れていたことが起こりました。
相馬市の同じ酪農家の友人が自殺したのです。
この写真に写っているのは友人が亡くなる前に壁に書き残した言葉です。
「原発さえなければ」と書いてあります。
「2011年6月10日 1時30分 大変お世話になりました。
私の限度を超えました。
ごめんなさい。
原発さえなければと思います。
残った酪農家は原発に負けずに頑張って下さい。
仕事をする気力を無くしました」。
時期を同じくして、隣の地区の102歳のおじいちゃんも自殺しました。
南相馬市の93歳のおばあちゃんも「墓へ避難します」と書き残して自殺しました。
こういうことが次々に起きたのです。
これからも起こるでしょう。
これは7月下旬の私の自宅の雨どいの線量です。
27,62マイクロシーベルト/時と出ています。
現在、村民はみな避難していますが、我々は24時間体制でパトロールしています。
雑草が伸びきって、温室の屋根を突き抜けています。
これが今の飯館村の姿です。
私は、国が原子力を推進して来たのだから、国は事故の対策をきちんと取ることができるのだろうと思っていました。
ところが、事故が起こって、今頃、どうやって除染をしたらよいかの実験をやっているのです。
私達村民は、村に戻れるのかどうかもわからない状態です。
でもただ一つ、はっきり言えることは、私は子どもや孫を飯館村へは絶対に返さないということです。
飯館村の面積の70%は山です。
家の周りや農地をいくら除染しても、山の除染はできませんから、山から放射能が移動して来るのです。
我々は今から何年か後に、村を捨てる決断をしなければならないかもしれません。
可哀想なのは子ども達です。
子ども達は飯館村というステッカーを一生背負って生きて行かなければなりません。
広島や長崎の被爆者とおなじように、差別を受けることになるでしょう。
そんな差別の起きない社会を私達はなんとしてでも作っていかなければなりません。
今回このようにしてドイツを周り、私はドイツは素晴らしい国だと思いました。
なぜなら、福島の原発事故の危険をきちんと見極め、ドイツは脱原発を決めたからです。
それにひきかえ日本という国は、こんな事故が起こってもなおかつ、原発を再稼働するという。
それどころか、原発を輸出しようとすらしているのです。
そんなことは絶対に阻止しなければなりません。
これからは、日本人も声を大きくし、戦っていかなければならないのだと思います』≫
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