サンケイのコラム、「日の蔭りの中で」で佐伯啓思氏が、わたしの思いを余すところなく書いておられました。
「過去の事例にまでさかのぼって体罰教師を無条件に告発するという風潮には、うすら寒いものを感じる」
わたしはうすら寒いのを通り越して、恐怖さえ感じています。
桜ノ宮の事件に始まり、あちこちから体罰教師が炙り出され、すべての体罰がひとくくりにされて「悪」の烙印を押されるという空気ができあがりました。体罰を擁護したり肯定する人もたくさんいるにも関わらずそういう声はかき消されています。
しかし、わたしがここで言いたいのは、体罰の是非ではなく、世論が一方にのみ流されていく風潮なのです。
尖閣に端を発したナショナリズムの台頭も同じ構造です。
わたしのように、戦争を否定するものは、その内国賊扱いになるのではないかと思い、ブログの閉鎖も視野にいれなければいけないかなと思ったりしています。
戦前は、戦争反対と言っただけで、共産主義者とか国賊にされたということですから。
「かっては、教師に激しく叱られたり、いじめにあったりすれば、友人や先輩が相談に乗りー」
密度が高すぎて親には相談しにくいものだが、それでも
「親や兄弟のまなざしを感じることができれば、何とか自らを立て直したものであった。」
生徒の自殺は一体罰教師の問題ではありません。
わたしは、かれがあらゆる人間関係から孤立していたことに根本的な問題があるような気がします。
他の部員たちの「まなざし」はどうだったのでしょうか。
友人や先輩や家族の「まなざし」はどうだったのでしょうか。
日本の社会からあらゆる関係性がずたずたに断ち切られていることが問題なのであって、そういう社会的な関係やつながりが回復しない限り、これからも自殺者は増え続けていくしかないのだろうと思えてなりません。
アルジェリアで息子が犠牲になった母親が
「辛いことがあったらいつでも帰っておいで、ここに家があるのだから」
と言われるのを聞いていて、わたしは涙があふれてなりませんでした。
秋葉原の事件の犯人とされる青年のこと思ったからです。
帰省したとき、親は冷たかった、とかれが言ったということを思い出したからです。
四十歳も過ぎた息子に「辛くなったら帰っておいで」と言う親は「甘い」親でしょうか。
あるいは、わたしもそうですが、そう言って帰ってくるような息子ではないから言えるというか言いたくなるのでしょうか。
世の中には、子どもに帰ってきてほしくない親もいれば、帰ってきてほしくてもそれが言えずに悶々としている親もいます。
帰ってきてどうなるものでもありません。しかし、たとえ遠く離れていても、そういう親の「まなざし」が感じられるだけで子どもたちは生きていけるのではないでしょうか。
行きずりの人のあたたかい「まなざし」に会っただけでも人は生きられるのです。
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