久しぶりに、それを手にとりました。
見るのが辛いので、抽斗の奥に仕舞っていたものです。
母の定期入れ(カード入れ)なのですが、その中に、二つに折った紙片が入っていて
そこに、長男の住所と電話番号、そして、その下に、やや大きい字で
「私を病院に入れないでください。」と書かれていたのです
そのころは、かなり病状も進行していたのですが、それでも、それとなくお別れを言いたい人のところへ出かけたりしていましたので、いつ倒れてもいいように用意をしていたのだろうと思いました。
しかし、その後、ふと、これは長男への強いメッセージではないかという思いが浮かんできました。
世の長男に共通の性向ではないかと思うのですが、兄は、母にたいしていつもぶっきら棒で命令口調でした。照れもあるのでしょうが、それにたいして母はいつも黙ったままなので、およそ意思の疎通など成立するわけがないのです。
そういうことなので、直接自分の思っていることを言えず、紙に書いて伝えるしかなかったのではないかと思いました。
母はそれほどまでに、病院に行くのを拒みました。
そして、自分のことが言えない母が、一世一代の「わがまま」を押し通したのです。
(「私を病院に入れてしまえば、あんたたち子どもは楽だもんね」と、こんな嫌味さえ言ったのです。)
先日の「しほ」が死んだときにも思ったことですが、ほとんどと言っていい人が、家族の看病を受けることなく、病院で死んでいきます。それが当たり前のことになりました。
病人が、たとえ家にいて治療したいと思っても、それが言えないし、できない空気ができているのです。
しかし、看病するということは、「喜び」であり「幸せ」なことなのです。そのことをほとんどの人が知らずに、自分もまた病院で死んでいくのです。
認知症や寝たきりになった配偶者を、在宅介護している夫や妻がたくさんおられるようですが、その大変さは想像に難くありません。
しかし、あのときは大変だったけど、人生の中で、もっとも充実した時間だったと、後になって思い出されるのではないでしょうか。わたしにはそう思えるのです。
今は、核家族で、多くの女性が外へ働きに出ているので、在宅介護なんて夢のようなはなしです。
しかし、愛する家族を看病する喜びを捨てても、働きにでることが価値のあることだろうかと思うことがあります。人生の価値ってなんだろうと。。。
竹中平蔵が、女性の労働力が日本経済の成長の鍵だというようなことを言っているそうですが、竹中平蔵が言うというだけで、それが陰謀だと分かるではありませんか。
社会の仕組みや家族制度を破壊して、より多くの奴隷を生み出すことがその目的だと分かるではありませんか。
「しほ」が立てなくなってからの一週間ほど、安らかに死んでほしいと祈るような気持で看病できたことは「喜び」でした。
しほ! もっと看病したかったよ!
母の看病のときは、経験もなく、知識もこころも貧しくて、とてもとても看病したなどとは言えないのですが、いまなら落ち着いて、こころを込めて看病できるのにと思うと涙が止まらなくなります。
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