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谷間の百合

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忠誠心の喪失。

きょうの「正論」の執筆者は、過日、「こわい雑巾」でも取り上げた新保祐司さんの
「いまの危機は『忠誠心』の喪失に」という論文でした。

自分の力量不足でいままで書けなかったのですが、わたしが、何とか文章にしたいと思っていた命題でした。わたしの思いがすべて汲み取られているとは言えないまでも
時宜に適った問いかけだったと嬉しく思いました。

≪人間が人間である根本的な根拠に、忠誠心がある。人間は自己の外部にある対象に対して忠誠心を抱くことによって、初めて自己を持つことができるという逆説的な存在である。今日の精神の危機は、この忠誠心の喪失にある≫

きのう、わたしは、国と自分は一体だと書きました。
それは、自分の外部にある対象(祖国や皇室や主君)に忠誠心を持つことで、初めて自己を持つことができる、という意味での自己同一性のことだと言ってもいいのではないでしょうか。
言い換えれば、外部の対象に忠誠心(愛)を持たない人は、自分が生きた証しを持てないということになります。

≪自己に対して忠誠であることは、「戦後民主主義」のイデオロギーの一つであろうが、自己に忠誠であることは、忠誠がそもそも自己の外部あるものを対象にするものであるから成り立たないのである。この矛盾を矛盾として感じないのは、「戦後民主主義」という「空想」の中にいるからである。
この矛盾の中に長く生きてきたために、日本人の自己は、ついに自家中毒を起こして腐敗、自壊してきている。≫


この自家中毒から抜け出すのは、歴史を知ること、歴史的人物を知ることで十分なのだと思いますが、それがなかなか難しいようです。
歴史教育や情操教育を阻んでいるのは、やはりアメリカで、皮肉なことに、日教組の方針は、はからずもアメリカの占領政策と一致しているのです。


話しは違うかもしれませんが、いつだったか、何気なく「自分のために涙を流したことはない」と言ったとき、娘が「嘘つき!」という目でわたしを軽く睨みました。
いま、思ったのですが、忠誠という言葉を「悲しみ」という言葉に置き換えると、悲しみも、そもそも自己の外部にあるものを対象にしているということになりますから、純粋に自分のために涙を流すということが、わたしにはますます分からなくなります。

それ以来、わたしは、自分のために涙を流すとは、どういうときだろうと考え続けています。人は寂しいとき涙を流すのでしょうか。でも、寂しいという感情も他者の存在あってのことでしょう。この世の無常を感じて、寂寞とした心境になったときの涙はどうなのでしょうか。唯一、思いついたのが、悔悟の涙ですが、これだって、外部の対象との関わりから生起するものではありませんか。
(その後、娘はこんなバカな母親のせいで、いっぱい涙を流したのではないかという思いが込み上げてきて、胸が潰れる思いがしました。)


またまた話は変わりますが、
石原伸晃さんも、谷垣さんに忠義を尽くせば、(モチロン、形だけでいいのです)もう少し株があがったのにと思います。
忠義や忠誠ということに感動するのは、古今東西,普遍の人間の真実ですから。









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by michi-no-yuri | 2012-09-13 11:30 | Comments(0)
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