菅さんの弔辞の件といい、nhk の「日曜討論」に出て、教団への解散命令は難しいと他人事のように言ったという萩生田さんといい、今更ではありませんが、日本の道義の凄まじい劣化に言葉をのみます。
後で菅さんの弔辞の内容を知って、わたしは一瞬でウソだと思いましたが、そんな小細工をしなくても安倍さんが葛西敬之さんへの弔辞で言った言葉だと言えば恥をかくこともなかったのにと思いました。
それをしたくなかったのは、あくまで自分を際立たせたかったからでしょうか。
自分を主体にしたかったからでしょうか。
わたしが一瞬でウソだと思ったのは、安倍さんがそんな本を読んだとは思えなかったからです。
その本は葛西さんに紹介されたものだったようで、多分、その「うた」を葛西さんが思いを込めて口にしたのだろうなと思いました。
そういうところは抜け目のない安倍さんが、さっそくその本を入手し、いつか使おうとその「うた」だけに印をつけていたのではないかと想像しました。
意地の悪い想像ですが、相手が安倍さんなだけにそれくらいでちょうどだと思います。
最後のページの端を折る人などいませんから。
菅さんや萩生田さんは特にそうなのかもしれませんが、わたしは心底その羞恥心のなさに驚くのです。
「恥の文化」はウソだったのかと。
あるいは、敗戦とともに消滅したのかと。
なにしろ、鬼畜米英で戦い、敗けた途端にマーッカーサーさまさまになるような国民です。
かれへの感謝と称賛を綴った手紙を何千、何万とGHQに届けるような国民です。
そもそも、「恥の文化」とは、どういう性質のものだったのでしょう。
何事にも功罪の両面があり、戦後はそのバランスが大きく崩れたということでしょうか。
「恥」とは、他人の目を気にして恐れるような国民性だったり、やせ我慢だったりという要素があるのではないでしょうか。
そうでなければ、今のていたらくが理解できません。
「恥」のないところに「誇り」があるわけがありません。
岸田さんは何もできません。
それをすれば支持率を爆上げすることができるのに、萩生田、山際両人の罷免もできません。
岸田さんは安倍さんだけを見てきた人なのだと思います。
安倍さんの政治だけを見てきた人です。
何もできなくて当然です。
細田さんは衆議院の議長という重責にありながら引責辞任もせず、総理も不問に付しています。
ほんとうにどうなっているのでしょう!
産経が、国葬の日に反対を叫ぶ人たちの姿を子どもに見せられるかと言っていました。
子どもに見せられないことをしてきた人の国葬なのです。
安倍さんが国会で平気でウソをついているとき、産経は何も言いませんでした。
信賞必罰は社会秩序の根幹です。
この言葉を安倍さんは死語にしてしまいました。
どんなにウソをついても罰せられない社会にしました。
教団にビデオメッセージを贈っても大した問題になることはないだろうと、、安倍さんは国民も周りも見えなくなるほど自分の権力に安心しきっていたのでしょうか。
それが命取りになりました。
山上徹也は見ていたのです。
読売の世論調査で、国葬をしてよかったと思う人が41%もいました。
5時間に及ぶ式典に、何も感じなかった人々です。
菅さんのお芝居に感涙したような人たちです。
わたしは、5時間座っているという苦痛が想像できないような人とは話が通じません。
プーチンは我々の価値観は、「人間性、慈悲、思いやり」だと言いました。
「慈悲」という言葉に涙がこみ上げました。
そんな言葉があったんだと、、
でも実際には慈悲のこころを持った人はたくさんいます。
それを、政治が表に出さないように封殺してきたのかもしれません。
そういうプーチンを西側は冷酷非情な人間だと喧伝するのです。
それを多くの人が信じています。
毎日、毎日繰り出されるフェイクニュースに精神が蝕まれ疲労が溜まっていきます。