忘れられた「何気ない暮らし」の尊さ。
(「Walk in the Spirit」のブログより)
あなたたちは理解していない、
自分自身の家で
ゆったりとくつろいで座り
スナックをつまみながら
自由に思いをめぐらせることが
如何に貴重だということが。
働いている女性がよく言うのが、家にいて退屈ではないかということですが、そういう質問をする人にこのコトバは理解できないでしょう。
あまり実現しないのですが、ベランダで朝日を浴びながらコーヒーを飲み、新聞にさっと目を通したり、読書をするのがわたしにとっての至福のときです。
退屈な時というのは、訪ねてくる人を待っている時間だけだと思います。
わたしはほんとうに音楽を聴かないのですが、そもそもその欲求がありません。
いつかも息子と話していて共感したのが、自然の音だけでいいということでした。
自然の音と言えば生活音や子どもの声もそうですが、世間にはそれを不快に思う人が驚くほどたくさんいて、なかには殺意を催す人もいるようです。
(そういう人はまた、自分とは違う考えを持つ人にも憎しみを向けそうです。)
音楽を聴かない最大の理由は、頭の中はいつも雑念でいっぱいで、音楽が入りこめる隙間がないということだと思います。(これが小説を読めない原因でもあると思います)
マンション住まいのとき、真上の階のボヤ騒ぎで消防車が何台も来ていたのに、それに気が付かなかったほどです。
こないだ、太い毛糸で編まれたカーディガンの肘のところが薄くなっていたのを思い出し、フェルトで肘当てを完成させたときは久しぶりに充足感に満たされたものでした。
普通なら捨てるようなものですが、愛着のあるカーディガンだったのです。
もう何年もネズミが住み着いていて、ネズミ算でいくととてつもない数になっているはずがそうならないのはなぜなのでしょう。
掛かってくれたら山に捨てに行こうと思ってネズミ捕り器を仕掛けていたのですが、まったくかかる気配はありません。
或るときは、パソコンや電話に繋がる線を見事に嚙み切っていてひと騒動でしたが、そのときにもうこれまでだとネズミ退治は諦めて共生する決断をしました。
きのうは、収穫して台所の隅に置いていた小さなカボチャを、ローソクを立てたくなるような形にきれいに齧っていました。
それからは悪さをしないようにいつも餌を絶やしません。
ネズミはいいのですが、それを狙ってへびが来るのが身の毛がよだつほど嫌でした。
以前、湖東に住む知り合いを訪ねたとき、玄関先に蚊取り線香が焚かれていたのを不審に思ったのですが、訊くとへび除けだということでした。
それを思い出して、三年ほど前から家の外の二か所に蚊取り線香を焚くようになったのですが、それ以来ぴたっと寄り付かなくなりました。
へびで困っている人(そんな人いないでしょうけど)はぜひ試してみてください。
姉は一時イタリアの男性と同棲していたのですが、そのイタリアの男が日本人の(特に女性の)悪口を言うこと言うこと。(白人男性と結婚している人なら嫌というほど知っているでしょうが)
その彼が言ったことの一つが日本の女は何もしないということでした。
イタリアの女性はいつも鍋の底をピカピカに磨いているのだそうです。
わたしはそれには納得するものがありました。
退屈だと思うなら、試しに鍋の底でも磨いてはどうかなと。
鍋の底がピカピカになって喜びを感じない人はいないでしょう。
しかし、ほとんどの女性は「そんなこと」と思うのです。
「そんなこと」のために自分は生きているのではないと。
でも、「そんなこと」以外に何ができるというのでしょう。
「何気ない暮らし」の尊さは、「そんなこと」にあるのではないでしょうか。
小さな庭と、それに続く猫の額ほどの畑でもわたしの手に余ります。
畑に手を入れるのも最初だけで、後は雑草の勢いに追いつけずに早々と諦めて生えるに任せます。
夏の盛りには足の踏み場もないほど雑草に覆われるのですが、有難いことにそれでもナス、トマト、ピーマン、サツマイモ、カボチャは育ちそこそこ収穫できました。
来年はどうしようかな。
(写真はわが家ではありあません。)