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谷間の百合

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これは、歴史的な出来事です

見たくないから離れ小島にでも逃げ出したくなっていましたが、そういう考えは捨てました。気魄をこめて、見ていてやろうと思うようになりました。橋下市長のことです。

言いたい放題、やりたい放題ですね。
安倍さんに続き、中川秀直の名前もあがってきたことで、わたしが、かれが市長に当選したときに
「橋下君と息子の進次郎が組めば、もう天下を取ったようなものだと高笑いする小泉純一郎の姿が見えるようだ。」と書いたことが、その通りになりつつあるようです。

結局、郵政選挙の振り出しに戻ったのです。そして、また、国民が騙されるかどうかで日本の運命は確定するのでしょう。

わたしは、早くから、かれは、小沢一郎さんの刺客として闇の勢力が送り込んできた人物だと思っていました。
政治力学、政治のウラを知り尽くしておられる小沢さんはそれを夙に見抜いておられたことでしょう。そんなことは朝飯前です。
小沢、橋下の連携話をミスリードする人間と、それに騙された人間によって、ここまでその話題が引っ張ってこられたことに、わたしは非常なる怒りを覚えます。つまり、
小沢さんと橋下さんは近しい関係にあり、政策もほぼ同じだという印象を国民に植え付けて、小沢票を取り込もうという悪知恵だったと思うからです。

きのう、小沢さんが訪韓した際に、自分が首相になったら竹島は韓国領だということを明確にすると言ったというデマが流れました。幸い、小沢さんがいち早く否定されましたが、小沢さんを潰すためなら、嘘でもデマでも垂れ流すというこの悪辣さ、浅ましさ!
何か問題が起きればそのとき訂正すればいいという考えです。要は、国民にインパクトを与えることが目的なのです。

いまだに、小沢さんが朝鮮人だとか、在日、朝鮮と親しいというデマを信じている人、あるいは、信じたい人は、早く、目を覚ますことです。自分の中の偏見や憎しみを克服することです。もし、そういう事実があるなら、なんで小沢さんがこれほど叩かれるのかの説明ができますか。韓国政府、在日、CIAとその配下の日本人などが仕組んだものだということは丸見えではありませんか。

橋下市長という人間が、今現れたということは、歴史的な出来事なのです。それほどトンデモナイことなのです。

前にも書きましたが、かって、麻生さんが野中広務めについて、部落出身者が総理になるというのはいかがなものかと言って、野中さんの恨みをかいましたが、その真意は捨象して言葉づらだけを取り上げると、その懸念はまったく正しいと思います。
人は、余りにも、被差別意識というものを軽く見ていないでしょうか。わたしは、被差別意識の根の深さ、日本と日本社会にたいする怨念の深さを思うと、そういう人間を日本のリーダーにすることは危険極まりないことだと思っています。これは差別感からではなく、事実を言っているのです。
かれを見れば分かるではありませんか。
口調の激しさは、そのまま、日本への恨みの激越さです。
女性問題が暴かれましたが、こういう暴露が、ますます、かれの復讐心や敵愾心を駆り立てるのです。
きのうは、経済人との会合に欠席しましたが、ひとりの経済人がかれに批判的な文章を書いたことが、その理由でした。異常なのは、はっきり理由を公言することです。
なぜだか分かりますか。自分は独裁者だということを国民に知らしめているのです。
アメリカは、実にスバラシイ人間を掘り当てたものです。

今でも、かれを批判できない空気があるそうですが、これから、それは、ますますエスカレートして、気に入らない人間は、闇と連携して失脚させたり、あるいは、無きものにするところまでいくのではないでしょうか。

民主党代表選では、これほど人気のない野田総理が再選されることになるのだそうです。
政治家のだれもかれもが、野田総理個人ではなく、かれのバックについている権力の存在を意識して、寄らば大樹の陰とばかりに靡いているということでしょう。
まったく、国民のことなど眼中にありません。このことからも、だれがこの日本を動かしているかがよく分かるではありませんか。

いま、橋下市長が国政にでることを明言したというニュースが流れました。過去の、前言を翻したという批判を逆手にとっているのです。それがどうした、これが独裁者のやり方だ、よく見ておけ、ということです。

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by michi-no-yuri | 2012-08-31 11:48 | Comments(0)

グルメでなくても、なんでもおいしい

愛様が、二回にわたって「食」について書いておられ、大変興味深く読ませていただきました。そこで、わたしも日頃食について感じていることを書きたくなりました。

いつか、テレビでみたのですが、大阪の商家の主人が、年初めに一年間の献立を、日めくりのようなものに書き入れるというのが習わしだったということを言っていました。
何か特別の日以外は、季節の野菜が変わるくらいで毎日同じ献立でした。
わたしは、スバラシイと思いました。
簡素で清らかな食事を理想とするわたしには、願ってもない習慣です。

思えば、現代の女性は、ほんとうにストレスの中で生きています。フアッション、化粧、ダイエットなどに、人生の持ち時間の大半を費やしていると言っても過言ではありません。それがすべてストレスを生んでいるのです。
ときどき、何のために生きているのだろうと思うことがあります。

わたしが、もっともストレスを感じたくないのが食事についてです。
前述のような商家のように、一年間の献立が決まっていたらどんなにいいだろうと思います。
ところが、現代は、和食に、中華、フランス、イタリア料理、さらに、料理研究家と称する人が毎日のように次々と創作料理を披露してくれます。
わたしは「やめてくれ~」と頭を抱えて叫びたくなります。
もう、これ以上ストレスをつくりださないでほしいと思うのです。
創作はいいから、もし、テレビでやるのなら、基本的なこと、漬物や保存食や伝統的な料理だけにしてほしいと。

谷崎潤一郎が、中華のある料理をさして、「ねこの反吐」みたいだと言ったそうですが、(そんなことを言えば、カレーはどうなるのでしょう)わたしにも、そういう感覚があります。
今でこそ、カレーも好きになりましたし、大阪人のくせに大嫌いだったお好み焼きなども食べるようになりましたが、わたしは混ぜこぜになったものや、グチャグチャしたものが大嫌いでした。
余所でどんなご馳走を出されても、わたしはいつでも、そんなものより、ご飯にお味噌汁にお漬物に野菜の何かのほうが食べたいと思っていました。

もしかしたら、これは百姓のDNAかもしれません。農村では戦後になっても、食事といえば、麦飯にたくあん、夕食に野菜のおかずが付いたくらいで、汁物など滅多になかったと聞いたことがあります。

なにかで、究極の食通とは、白飯に冷めた白湯(お茶はNJ)をかけてたくあんで食べることだと書いてあったのを読んだことがあります。分からないではありませんが、ちょっと、身体にはどうなんだろうと思ってしまいます。しかし、これは、ご馳走を食べ尽くした人のことで、わたしとは根本的に違います。

足穂の自伝的小説で、腸チブスかなにかで入院していたときに、看護婦さんの話を盗み聞きしたときのことが書かれています。ひとりの看護婦さんが、一度にたくあん二本、梅干しを5個くらい食べないと食べた気がしないと言ったということが書かれていてわたしはびっくりしました。それがオカズのすべてだったとしてもたくあん二本は驚きです。
(日本人の胴長、短足、大根足は、たくあんの大量消費にあったのではないかと思ってしまいます)

いつも思うのが、なんでそんなにご馳走が食べたいの?ということです。
グルメでなくても、いえ、グルメでないほうがよほど美味しいのにと思うのです。

悲しいことですが、はからずも、わたしの理想とした食事が、これからの日本人の食事になっていくのではないでしょうか。
そのときに、食の有難さやほんとうの美味しさが分かるのでしょう。

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by michi-no-yuri | 2012-08-30 15:22 | Comments(0)

八月二十九日  その二

生後間もない犬、猫の販売規制とネット上での取引に対面による説明を義務付ける動物愛護管理法の改正法案が、きょう可決、成立するということです。

わたしは、ペットショップやホームセンターのペット売り場を覗いたことがありません。どうしても、近付けないのです。
需要があるということで、どんどん犬や猫が商品として生産されていくことが耐えられないのです。
その一方で、処分されていく犬や猫がたくさんいます。
わたしは、この20年間に、7匹の犬を飼いましたが、全部、困っている人から貰い受けたり、拾った犬です。
可哀そうな犬猫がたくさんいるのに、お金儲けのために、次々と犬猫が新商品として作り出されていくことが不条理でなりません。

そんな規制はどうでもいいですから、ペットの販売そのものを禁止してほしい。

思い出すのも、書くのも辛いのですが、以前、犬が行方不明になったことがあり、もしかしたら保健所かもしれないと思って、急いで子どもと行きました。いました!!
そこには、たくさんの犬がいました。部屋が五つくらいに仕切られていて、一日一日と処分場の方へ移動させられていくのです。(引き取りにくる人のための対応でしょう)
ウチの犬は真ん中の部屋にいて、恐怖のために隅っこにうずくまり、しばらく動けずにいました。

行きは電車でしたが、帰りは8キロくらいの道を歩きました。
ところが、二日後にあっけなく死んでしまったのです。強いストレスのせいだろうと思いました。

裏庭はフェンスに囲まれていたので、安心して放していたのですが、なんとフェンスの下を掘って、近くのメス犬のところへ夜な夜な通っていたそうです。そのメス犬の飼い主が困って保健所に連絡したということでした。

かれは、思いを遂げたのでしょうか。
それとも未遂だったのでしょうか。
どちらにしろ、恋をしたことは事実でしょうから、もって瞑すべきなのかもしれません。

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by michi-no-yuri | 2012-08-29 21:03 | Comments(1)

八月二十九日  その一

日本人の関心を韓国から中国にシフトさせようというだれかの意思を感じます。
尖閣に上陸したのは、香港の、アメリカに本部がある団体の活動家だということがバレテいますし、
丹羽大使の公用車から日の丸を奪った人間にしても、とても、中国政府が関与しているとは思えないのに、日本のマスコミは大きく報じています。

また、尖閣に上陸したときのビデオも編集しまくって公開したり、明らかに、国民の敵意を中国に向けさせようとしています。
ところが、中国政府の反応は、素っ気ないほど冷静で、遺憾に思い調査するというものでした。その調査の結果を待てばいいものを、日本政府は早々と、総理の親書を山口外務副大臣に持たせて訪中させたのです。

大使が襲撃されたのならともかく、小さな日の丸が奪われたくらいで、この過剰反応は
何なのでしょう。
いままでだって、中国や韓国で、日の丸は散々、踏みつけにされ、火をつけられ、ツバを吐きかけられてきたのに、日本人は黙って耐えてきたではありませんか。

中国も中国ですが、わたしは、その何倍も韓国が嫌いです。
中国とは、ともかく大人同士の話し合いが可能ですが、韓国とは無理です。
人に、どう見られようと、どう思われようと、かれらは自分の感情の赴くままです。
そして、火病といわれるその性癖に、辟易して引き下がってきたことが、現在の災いの基になっているのです。
もう、無視という大人の対応をとるべきではないのです。
過激に思われるかもしれませんが、がつんとやるしかないのです。
あるいは、理路整然と、うむを言わせず、相手の誤りを強く指摘することです。
犬だって、誰がイチバン強いかをよく見て、強いものに従うではありませんか。

かれらに苦しめられた体験はありますが、わたしにはまったく私怨はありません。
(わたしの、飽きっぽい性格は、こういうときは長所に働くようです)
あの民族性が忌まわしいだけです。


橋下市長と安倍元総理が連携するというニュースは、わたしには朗報で、ひそかにほくそ笑んでしまいました。悪は悪と、ゴロツキはゴロツキと相惹かれるということでしょうか。安倍さんはああ見えて、ウラの顔は汚いと思いますよ。
二人一緒に自滅してくれたら、願ったり叶ったりです。

これでやっと、小沢さんと橋下さんとの連携話を聞かなくていいことが何よりも嬉しいです。

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by michi-no-yuri | 2012-08-29 11:15 | Comments(0)

八月二十八日  その二

今年の夏は異常でした。
いい加減なことは書けませんので、今まで様子を見ていたのですが、例年と比較してその異常さははっきりしています。

イチバンの異常はへびに一度も遭遇しなかったことです。こういうことはあり得ないのです。
眼下の川から上がってくるのですが、途中の土手にも巣がたくさんあるのだと地元の人が言っていました。うちが通り道になっているのです。

わたしは、マンガやイラストに描かれているへびでも怖い人間なのです。いつか、田舎暮らしの本に、へびが描かれていて、わたしは思わず本を投げ出したのですが、後で、恐る恐るそのページを破ってシュレッダーにかけました。

ねずみが住み着いた年は毎日へびがきました。軒に上がろうとする執念は凄まじく、窓を開けると庇から尻尾が垂れていたり、ドアーを開けるとベランダの手すりに巻き付いていたりと、ほんとうに気が変になりそうでした。家を建てたばかりでしたが、家を捨てて逃げ出したくなりました。
ねずみのいない年でも、ほぼ毎日のようにどこかで遭遇しました。

子どもがいるときは、捕まえて袋に入れ、車で山へ逃がしにいったのですが、後で、へびは、つがいや家族で行動していると聞き、可愛そうなことをしたかなと思いました。

たいていの犬はへびが苦手だと思うのですが、うちの、メスも含めた歴代の犬たちは
勇猛果敢に飛びついていって噛み殺してしまうのです。飼い主に似たということは、ゼッタイにないと思うのですがw

へびが出てこないということは、どういうことでしょうか。
どう考えればいいのでしょうか。

それと、つばめが極端に少ないことがあります。
例年だと、近くの小学校の校舎や体育館の軒下に100~150羽のつばめが巣をつくるのですが、今年は10羽くらいでした。
つばめがいないというだけで、しぃ~んとして寂しい夏でした。怖いくらいの寂しさでした。

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by michi-no-yuri | 2012-08-28 19:10 | Comments(1)

八月二十八日  その一

きのうアップした写真はわたしが撮ったものではありませんが、いい写真だなあと思います。わたしが、求めているのはこういう写真なのですが、目にする写真のほとんどは、
きれいな景色や花やグルメばかりで、何の感興も湧きません。

写真展など見にいったことはありませんが、銀行や市役所のロビーなどに展示してある写真はどれもこれも息をのむような美しい景色や花なのですが、わたしは、ついぞ、一度としてその前に足を止めたことはありません。

毎年、恒例のように、梅と桜の花見にいくのですが、目障りなほど年配のアマチュアカメラマンがいます。そういう人は、梅だけを、桜だけを写そうと、人の流れが途切れるのを待っているのですが、わたしは、なぜか、このときばかりは意地悪な気持ちになって、わざとカメラの前に背中を向けて立つてやるのですw
花だけ撮ってなにが面白いの?!人間も入れなさいよ!と背中に言わせているつもりなのですw

きのうの写真ですが、店の中にいる男性のズボンが、女性のロングスカートのように見えて笑ってしまうのですが、わたしは、こういうのが見たいのです。
時代が感じられるからです。
梅や桜だけ写して、時代が感じられますか。生活が感じられますか。

わたしは、写真を撮るのも撮られるのも嫌いなので、多くもない写真のほとんどが俯いています。
しかし、これからは、嫌いとばかり思わずに、永遠の一瞬ともいえる日常や人間の表情を撮ることに挑戦してみようかなと思わないでもありません。(まあ無理でしょうね)

十代のころ、少しだけ絵を習いに行ったことがあります。(何を習いに行っても、半年もてばいいほうです。)
あるとき、真っ黄色に染まった御堂筋のイチョウ並木をパステルで描いたのですが、そこに、黒いカブトムシのような車と、数人の人を描きいれたのを、先生がとても褒めてくれたのです。車や人間を描くことで、この絵は活きた絵になったと。褒められるということに慣れないわたしが、どんなに感激したかはいうまでもありません。
(先生は子どもを褒めてやってください。子どもの一生の宝になりますから)

確かに、イチョウ並木がいくらきれいでも、それだけを描いたらそれだけのものです。わたしが、どんなに美しい写真を見ても、ああ、きれいだなで終わるのは、そのときの先生の一言が、わたしの中で「信仰」にまでなっているからだと思います。

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by michi-no-yuri | 2012-08-28 11:22 | Comments(0)

八月二十七日  その二

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むかしの写真です。
場所は忘れましたが、紀伊半島の山間のバス停留所です。
右の方に夫が立っているのですがカットしました。

いい時代でした。
すでに、日本のあちこちで原発が稼働していたのでしょうが
そんなことどこ吹く風で、無邪気に遊んでいました。
だれが、今の日本を想像できたでしょうか。


昨晩、中原中也の詩集をパラパラ繰っていたら、
「夏」という詩の中にあった

「血を吐くようなせつなさかなしさ」

という一行が目に止まりました。

どこにもやり場のない、行き場のない、
収斂される手立てもないせつなさ、かなしさ、
そして、怒りは、いつまでも身内に留まって、
その身を蝕み、血を吐くにいたるということでしょうか。

とてもとても、血を吐くようなとは言えないわたしですが
身内に滞留しているかなしみや怒りはこの先どうなるのでしょう。

神さま、どうか、その御手でこのかなしみを掬い上げてくださいませんか。
わたしのかなしみではなく、日本のかなしみを。
それとも、血を吐くまで、もっと苦しめと言われるのでしょうか。

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by michi-no-yuri | 2012-08-28 00:00 | Comments(0)

八月二十七日  その一

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上の写真は、大阪市内にある「安政大津波の碑」です。
津波の甚大な被害を後世の人に警告として残そうということで建てられたものですが
傍には、碑文板書原文と現代語文にしたものがそれぞれ設置されています。

被害の詳しい状況と、津波への備え、心得が縷々書き綴られているのですが、とくに、胸を打つのは、最後の次のような一節です。

「犠牲になられた方々のご冥福を祈り、つたない文章であるが、ここに記録しておくので、心ある人は、時々、碑文が読み易いように墨を入れ、伝えていってほしい。」

写真に写る碑も黒く、墨が入っています。しかも、後世の人が、今の人には、読めないだろうと現代語文の碑まで用意しているのです。
泣ける話です。
というより、わたしは、泣けて泣けてしかたありませんでした。
これが、政治ではありませんか。
ところが、福島でも日本でも、これと真逆のことが平然と白昼堂々と行われているのです。みんなが人のことに無関心なのです。放射能が降り注いでいることも、福島の人たちが苦しんでいることもまるで他人事で、野球やサッカーやさまざまなイベントに興じているのです。

わたしは、まだ、はっきりと冷酷な人間の方が、何も感じない人間よりましだと思うくらいです。無関心や鈍感な人間に比べれば、まだましだとさえ思うくらいです。


この辺でも、少し歩くとあちこちに碑文や立札が建っています。
こないだも、立札のなかに、終焉とか直訴などという字が見えて、興味を引かれたのですが、全体に字が薄れていて判読できませんでした。こういうことに出会うたびに腹がたちます。
しかし、考えるまでもなく、腹が立つのなら、自分で市役所とかに掛け合うべきだったのですね。

国のことに直接関われないわたしたち庶民でも、こういう気遣い、心遣いをすることでどれだけ世のためになるか分かりません。

「心ある人は、時々、碑文が読み易いように墨を入れて伝えていってほしい。」と書いた人の気持ちを思うと、やっぱり泣けてきます。

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by michi-no-yuri | 2012-08-27 10:53 | Comments(0)

人間失格?

円盤投げ選手の室伏広治さんに、わたしが以前から違和感をもっていたのは、ファザコンのイメージが強かったからです。
この人は、お父さんが怖くて、お父さんに褒められたくて、お父さんのために、いままで頑張ってきたのではないかと思わせるものがあったのです。

今回、母親の生活保護のことがオモテにでてきたことで、はからずも、わたしの違和感が不当なものではなかったことが証明されたのではないかと思っています。

取材の申し込みに対して、本人から送られてきたメールなのですが、このメールが確かに本人からのものだということを前提に言うのですが、わたしは、かれの人間性を疑わずにはいられませんでした。

メールの要旨は
両親は協議離婚をして親権は父親に移っている。故に、自分たち(本人の妹)が、母と何らかの関わりを持つことは、父親に対して重大な裏切りだと認識している。
というものです。

こういうメールを堂々と送ってくることが、かれの非常識で未熟な人間性の証左です。
かれの戸籍上の名前には、母方の姓であるアレキサンダーというミドルネームがついているそうですが、離婚に至る原因が何であれ、子どもにその事情が理解できるはずはありません。たとえ、母親に重大な瑕疵があったとしても、子どもにとっては母親ではありませんか。

かれは、父親から自立(父殺し)できないのです。今も、父親の子どもなのです。
おそらく、結婚しても、相手にも父親の支配下にはいるよう要求するでしょうから
破綻は目に見えています。
いろいろな意味で、父親の重圧から逃れられない、父親を裏切れないという葛藤があったとしても、人間としての普通のこころがあれば、父親に隠れてでも母親を助けるのではないでしょうか。
かれは、それすらしませんでした。というか、できませんでした。

かれら父子にとって、親権の権は権利の権ではなく、権力の権だったということではないでしょうか。父親は絶対的な権力者で、子どもを権力で支配しているのです。
そして、かれは、それを良しとして、堂々と、母親を援助しないと宣言までしたのです。

わたしは、たとえ、父親が死んでも、かれは父親から解放もされず、自由にもなれないいのではないかと思っています。なぜなら、かれがそれを望んでいないからです。
それどころか、いつまでの、父親の威光や権威に縋って生きていくのではないでしょうか。
マザコンばかりが問題になりますが、世の中には、案外こういう男性がたくさんいるのではないかと思います。

オリンピック選考委員に立候補して落選しましたが、公の地位を目指す前に、父親との軛を断つことが先決ではないかと思いますが、かれにはできない相談でしょうね。

スポーツ選手は、努力の人、正々堂々と公明正大な人というイメージで見られがちですが、実際は、人間性に問題のある人が多いのではないでしょうか。

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by michi-no-yuri | 2012-08-26 11:33 | Comments(0)

利権の起源?

愛様が、宗教と信仰はまったく違うものだと言っておられます。
わたしも常々そう思ってきました。
宗教は要らないのです。教義なんて要らないのです。
ドグマに縛られてどれだけの人が、真理に気付かず、昏い、窮屈な人生を送っていることかと思います。自分だけがそうならまだしも、それで他人まで縛ろうとするのですから、宗教なんてロクなものではありません。

玉蔵さんのブログだったと思いますが、人が、臨終に、自分の人生を振り返って思うことのなかでイチバン多かったのが、自分の思うように生きたかったという後悔だったそうで、このことからも、人が、いかに押し付けられた価値観に縛られて窮屈な人生をおくってきたかが想像されます。

しかし、わたしは、世間的には、何一つ良いことも素晴らしいこともなく、まして、自己実現などには縁のない人間ですが、死に際に、そういう意味の後悔を口にすることはないだろうと思います。
ひたすら懺悔し、縁のあった人々にこころからの感謝を言いたいということだけです。
これだけはハッキリしています。

≪キリスト教においては、人と神が直接的につながることはいけないし、できないと考える。その間に教会が存在しなくてはいけない、ということ≫

宗教や資本主義がそういうシステムをしている と書いておられるように、わたしは、ここに、利権の仕組みの起源があったのではないかと思いました。世の中を複雑にすることで、どんどん利権が生まれていく仕組みです。結局、社会を複雑にして悪くしたのは宗教ということになります。


わたしが、これほど忌まわしいものはないと思っているのが、数百万といわれる日本人が、朝鮮の宗教を信仰し教祖に帰依していることです。
信者は自分が利権の餌食になって、教祖を肥え太らせているのです。その肥え太った教祖は、信者から吸い上げたお金を世界の支配者に万遍なく配って、自分も世界権力の一郭を占めて悪いことをしているのです。信仰とどこに接点がありましょう。

わたしは、自分を省みて、とても人のことをバカとか愚かとは言えないのですが、
この場合だけは例外です。愚かです。

≪宗教によって、人類は狭い箱に閉じ込められてしまった≫のであって、言われているアセンションとは、その箱が開くことかもしれないなと思いました。

ほんとうに、伸び伸びと明るく、シンプルに生きたいものです。

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by michi-no-yuri | 2012-08-25 10:45 | Comments(0)