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谷間の百合

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畏れ多いこと。

政府は「女性宮家」の創設に関するヒアリングを行い
その一人に何と田原総一郎さんを呼びました。
かれはこう言いました。
<天皇制を存続させた方がいいと言うのなら女性宮家に賛成する>
つまり、かれが暗に言いたいのは、天皇制そのものの存否なのです。
また、このようにも言いました。
<男女同権、男女共同参画社会においてそれは当然の流れだ>

こんなことしか言えないというより、こんなことを平然と言う人間が
のこのことヒアリングに出向いてきたのです。
畏れ多くも、こんな人間が皇室のことに口を差し挟んでいるのです。

つくずく思うのは、人選が偏っているということ以上に、この日本に
人材が払底しているという現実です。
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by michi-no-yuri | 2012-02-29 20:13 | Comments(0)

わたしは小沢さんを信じています。

今年に入ってから知ったブログに
「徽宗皇帝のブログ」というのがあり愛読しているのですが
今日の記事に、井口和基さんの昨日の記事を全文転載しておられます。
記事の中で、小沢一郎さんがロックフェラーの子分だと書かれていることに
徽宗皇帝様は「気に入らないが、もし事実なら自分の誤りを認めるしかない」
と書いておられます。

小沢さんがジェイ・ロックフェラーと親しい間柄だという噂は以前からあり
私自身はそれがどうした?と思っていました。
むしろ、親交があることによっていろいろな事情を知ることができるのですから
非情に有益なことではないかと思っていました。
そういうことがあって、小沢さんは世界の仕組みや動きを知悉しておられると
いうことでしょうから。

また、B・フルフォードさんがそういうことを言われたからといって
わたしはかれを怪しい人物だとは思いません。
ちょっとした立場の違いで視点にズレが生じるだけのことだと思っています。

わたしは、このごろ小沢さんについて言われることを全く信じなくなりました。
関係者や側近の弁だといわれても、直接その人の口から聞くのでなければ
信じることはなくなりました。
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by michi-no-yuri | 2012-02-28 12:40 | Comments(0)

むかしの男の顔には面魂がありました。

わたしの趣味はむかしの写真を見ることです。
まいどまいど、同じ写真を食い入るように見ます。
前々回の記事に、人間の顔をした人間をみることが稀になりました
と書いたのは、むかしの写真と比較したときの落差からくる印象です。
むかしの男の顔には面魂(ツラダマシイ)があった!
むかしの女は「谷間の百合」のように清楚で控えめだったなあと思っては
去っていった恋人を偲ぶかのように溜め息をついているのです。

ところで、「つむじ風」の飄平様とは、もちろんお会いしたことはないのですが
あくまで仮定のはなしとして、どこかで待ち合わせをして
お会いするということになったら、
目印に胸ポケットにバラ(いまどきそんな!というより似合わないでしょう)
を挿していただかなくても一目で識別する自信はあります。
それよりも、わたしの方が一目で分かってもらえる顔をしているかと
心配すべきかもしれません。

実はむかし、ある人からあなたのことを「白痴美」だと言っている人がいると
聞いて腰を抜かさんばかりに驚いたことがあります。
知的だと言われることはあっても(笑)よりによって白痴とは!
(このごろ、白痴と言う言葉は死語になっているようです)
最近、ふとそのことを思い出し、その人がそう言うのには言うだけの理由が
あるはずだと、いろいろ考えてみました。
もしかしたら、その人はドストエフスキーの「白痴」を読んでいて
わたしの本質に、主人公のような純粋無垢なこころをみたのでしょうか。
もちろん、そんな人間でないことは自分自身イヤというほど知っています。
しかし、少し人とは変わっているところがあるのも事実ですので
その変わっていることを純粋だと勘違いしたのかもしれないと思いました。
まあ「美」がついていたのでマンザラでもなかったのですが
これほど驚いたことは後にも先にもこの一回だけです。

自分のことはできるだけ書かないでおこうと思っていたのですが
ついつい書いてしまいました。
なぜ、自分のことを書かないようにしようと思ったかには理由があります。
わたしの尊敬する、森田療法で有名な三聖病院の宇佐院長が
自分のことを表現した時点でダメなのですと仰っているからです。
自分のことを情報化、言語化してはいけないのだと。
患者さんの治療法として言っておられるのか、人間全般についてなのか
分からなくて悩むのですが
わたしは、やはり人間はそうあるべきだと仰っているのだと解釈しました。
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by michi-no-yuri | 2012-02-28 11:49 | Comments(0)

橋下市長を国政に進出させてはいけません。

今日のサンケイ一面に、堺屋太一さんの、
橋下市長は日本のリーダーの資質を備えているとのインタビュー記事が載っています。

単刀直入に言いますと、橋下市長は日本のリーダーになれる、なれないではなく
なってはいけない人間なのです。
かって、麻生元総理が総理候補に上った野中広務さんのことを
「被差別部落出身者が総理になるのはいかがなものか」と言われたそうです。
麻生さんの真意は分かりませんが、
言葉面だけで言えばわたしが思うのも同じです。
しかし、わたしの真意はこうです。
わたしたちにこだわりや差別感情がなくても、かれら自身が身内に感じている
血の濃さからくる重圧は、想像を絶するものがあるのではないかということです。
よく、在日の人たちが、足を踏んだ人間は何も感じないだろうけれど
踏まれた人間はその痛みを永久に忘れないと言いますが、そういうことです。
在日や部落の人たちの、日本と日本人への怨念は生易しいものではありません。
わたしは、橋下市長がよく口にする、リセットとか非連続性への挑戦というフレーズを
耳にするたびに、自分の血をリセットしたいというかれの心奥の叫びを聞くようで
粛然となるのです。血のリセットのためには国家体制の解体もやむなしと。

一国のリーダーは、本来すべての国民の利益を代表する者でなければなりませんが
かれにその資格と気持ちがあるでしょうか。

しかし、そんなことよりもかれがリーダーになってはいけない最大の理由は
背後でかれを操るジャパン.ハンドラーズが、かれの人気のあるうちに
小泉政権でやれなかった案件を一気にやってしまおうとしている明らかな兆候が
あることです。恐るべきことです。

国民の目にかれの本性が鮮明に見えてくるまで
橋下市長にはもっともっとテレビにでて発言してほしい。
選挙期間中の街頭で「なんかコワいよう~な」と大阪のおばさんが言っていましたが、
この感覚こそが大事なのだと思います。
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by michi-no-yuri | 2012-02-27 13:33 | Comments(2)

今日は2月26日でした。

「暴力のかく美しき世に住みて、ひねもすうたうわが子守うた」

最初の記事に何をもってこようかと考えていたとき、この愛唱歌がふと頭に浮かびました。
これは、女流歌人の斉藤史が、2・26の主謀者のひとりで幼馴染の青年将校が銃殺刑に処せられたあとに詠んだうたです。現代においては理解されるうたではないと思いますが、世の中が誤解や勘違いで成り立っていることを思えば注釈を加えるまでもないでしょう。

一年に一、二度立ち寄る町の一隅に、むかし遊郭だったという場所があります。
面影は残っているものの、寂れて人の気配もなく、いわば死んだ町です。
その一郭の角にわたしのお気に入りの喫茶店があります。
有線から流れる古い流行歌や、常連らしきおじさんたちの会話を聞くともなしに
聞いていると、いつしかそれらの音声が、全盛期の遊郭のさんざめきと入れ替わり
時の彼方から潮騒のように打ち寄せてきます。

こういう場所はもうなくなりました。
いま、また暴力団排除に警察はやる気をだしています。
そういうものは排除すべきものか、或いは必要悪なのか、わたしには何とも
言えませんが、それらが姿を消して世の中がよくなっただろうか、よくなるだろうか
という思いはあります。
少なくとも、社会から活気や活力が失われたのは確かではないでしょうか。
なぜなら、「性」や「暴力」は究極的、根源的な「生」の発現に他ならないと思うからです。

なぜ、冒頭のうたからこういう話になったのか自分でも分からないのですが
自然な意識の流れに意義があるとすれば、種類も質もあきらかに違う二つの暴力も
或いは底流では繫がっているのかもしれません。

原発の避難区域を「死の町」と言って物議をかもした大臣がいましたが
わたしの目には日本中が「死の町」のように映ります。
人は動いていても真に生きているようには見えません。
姿かたちは人間でも、人間の顔をした人間を見るのが稀になりました。
そして、いずれ人間も福島の鳥のように動けなくなるのでしょうか。
(動けない鳥はなぜこんなに悲しいのでしょう。)

気がつけば、なんと今日は2月26日でした。
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by michi-no-yuri | 2012-02-26 21:53 | Comments(0)

はじめまして。

はじめまして。
今日からブログを始めることになりました。

気が重く、誇張ではなく、胸が押しつぶされそうになりながらも
ブログを立ち上げなければならないと思ったのは
自分の依って立つところから発言するのでなければ
言論とは言えないと思ったからです。
それでもなお気が重いのは、
わたしごとき<何の情報も持たず、収集も発信力もなく、
連帯やネットワークとも縁がなく、何かを勉強したわけでも
知識があるわけでもない>人間が一人立ちして
いったい、世間に向かって何を言うことがあろうや、との思いが
根強くこころを占めていたからです。
しかし
そういうこころを振り払って溢れ出てくるものがありました。
日本が日本でなくなっていくことへの「かなしみ」です。
日本を日本でなくしていく人間への「怒り」です。
そして、日本への祈りを言葉に換えていきたという止み難い思い。

いつもではありませんが
書く前に、自然に、胸の前で手を組み合わせて祈っていることがあります。
どうか、わたしに力を貸してくださいと。
そうお願いする対象は特定のだれかではありません。
あの人や― あの人や― あの人たち―です。
その人たちは、わたしを愛してくれた人や、会ったことのない人や
もうこの世にいない人などいろいろです。
わたしの「祈り」に力を添えてくださいとお願いするのです。
わたしにできることはそれくらいしかありません。
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by michi-no-yuri | 2012-02-24 22:54 | Comments(1)