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谷間の百合

taninoyuri.exblog.jp

2012年 11月 24日 ( 1 )

「葉隠」のことば。

きょうのサンケイの本の広告欄を見て気分が悪くなりました。
小川榮太郎という三文売文家の書いた安倍晋三詩論「約束の日」という本の広告が目に飛び込んできたからです。

非常にタチが悪いのは、三島由紀夫の檄文から「武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ!」という箇所を、自分が掲げる「憲法改正」の傍証に利用していることです。

安倍晋三は松陰や三島由紀夫と同列に並ぶ憂国の志士だそうです。
わたしは、あまり松陰や三島由紀夫を神様扱いにして崇めるのは嫌なのですが、それにしても安倍晋三はないでしょう。
「愛国主義はゴロツキどもの最後の隠れ家」ということです。
(そういえば、あの冷血でレイプ魔の元総理大臣も講演ではよく松陰の名前をだすそうですね。)

わたしは、言葉は重いものだと思っています。
だから、わたしは言葉を信じています。
言葉を信じてきたから、嘘の言葉も分かるようになったと、自分では思っています。

安倍晋三の言うことのどこに真実がありますか。
「日本を取り戻す」?
だったら、鳩山さんのように「アメリカからの独立」を言ってみろ、と言いたくなります。逆に「日米同盟の強化」を叫んでいるではありませんか。たとえ、それが方便だとしても知恵が無さすぎです。
何度も言いますが、「戦後レジーム」からの脱却は、自分が政界から去ることです。蟄居することです。

「嘘の言葉」ということから思い出したのですが
昔、三浦朱門さんが、殉教を迫られるような事態になったときは「転ぶ」と言われたことがあり、いまだに違和感として残っています。
クリスチャンにとって「殉教」は避けて通れない重い命題です。
クリスチャンでないわたしにとっても同じことです。なぜなら、思想や国に殉じるということは、だれにでもあり得る究極の選択だからです。

三浦さんはそれを本気とも冗談ともつかず言われました。
狡い、と思いました。明らかに担保として言っておられると感じました。
人は、殉教や殉死がとても恐ろしいことだと思うから、悩み、苦しみ、そして口を慎むのではないでしょうか。
それをどうして軽々しく「転ぶ」などと言えるのでしょう。

きのう、調べものをしていて偶然、「葉隠」のある言葉に出会いました。

≪「我は臆病なり。その時は逃げ申すべし、おそろしき、痛いなどなどいふことあり。
ざれにも、たはぶれにも、寝言にも、たは言にもいふまじき詞なり。」≫


これが、わたしが、三浦さんに感じた違和感でした。
そういうことは冗談にも、寝言にも言ってはならないと常朝は言っているのです。

「葉隠」からもう一つ。

≪子どもの教育は「かりそめにも、おどし,だます事などあるまじく候。幼少にて強く叱り候へば入気になるなり。」≫


橋下徹は「子どもは、所詮、恐怖心でしかコントロールできない。」と言って、はからずもお里(朝鮮かやくざ)を晒しましたね。
厳しく躾けることと、恐怖心でコントロールすることとは、まったく違います。
(日本では恐怖心を克服するために厳しくしつけるということはありましたが。)










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by michi-no-yuri | 2012-11-24 11:51 | Comments(0)