「阿修羅」を見ることは滅多にないのですが、先日、何気なく見たときに自分の写真があって驚きました。
有難いことだと思いますが、正直なところ困惑もあります。
目立ちたくない、やはり「谷間の百合」でいたいという気持ちなのですが、読んでほしいから書いているのに、われながら矛盾していて我儘だと思いました。
記事はアップした時点で自分の手を離れて、あとは煮て食われようが焼いて食われようが文句は言えません。
文句はないというものの、先日の「日本人は事実に向き合えない国民なのでしょうか」の記事に大いに気になるコメントがありました。
やったことは返ってくるという因果の法則を書いたことに、そんなものはないと断言したコメントです。
因縁生起(縁起)はあるが、因果応報はないのだということですが、では、因縁は何によって生じるのですか。
偶然ですか!
思えば、仏教の教えで、これは正しいあれは正しくないと言う人たちの思い上がりがどれほど教えを歪めてきたことでしょうか。
それは差別につながるといわれていることは承知していますが、差別だからといって真理を否定はできません。
それに、なによりも差別だとする見方が浅いというより間違っています。
そういう考えを流布したのが似非宗教家です。
因果は気が遠くなるような時間と空間のなかで生起するもので、今生の幸不幸は一瞬に過ぎません。
もし、因果応報がないとなれば、いま不幸な人はどうなるのですか。
それっきりでは救いも光明もないではありませんか。
平等とは、どの魂も輪廻のなかの因果によって幸不幸を繰り返していて同じだということで理解できるのです。
魂は平等なのです。
過日、岡潔を主人公にしたドラマを見ましたが、そのなかで、正確な言葉は覚えていませんが「この世(宇宙)は完璧だ」という意味のことを叫ぶ場面がありました。
科学者や数学者が仏教を信じるのは仏教が法則を説いているからでしょう。
宇宙が法則だから科学、数学が成立するのだと思います。
金子みすずが「見えないものでもあるんだよ」と言ったその「在る」けど見えないものと格闘しているのが科学者、数学者だといえないでしょうか。
地球が太陽を一周して一年、一年は12に分かれ、一日は24時間。
どうしてそうなっているのか不思議でなりません。
ちなみに、わたしは仏教の本を読んだこともなく、生活にも宗教的なものは一切ありません。
断片的な知識をもとに感覚と経験を通じて確信してきたことです。
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