きょうの記事は、先週の曽野綾子さんのコラムについて途中まで書いていたものです。
「現在、日本には乞食や物乞いはいない。それだけ国家の構造が良くできているのだ。私はその幸せをいつも噛みしめている」
と書かれているのですが、曽野さんはいつの時代を生きているのでしょうか。
曽野さんの住む空間はまた別に存在するのでしょうか。
一言で言えば、乞食がいないのは社会の変化によるものです。
近代的な高層ビルが立ち並び、人々が憑りつかれたように忙しく行き交う地上にあって乞食がいられる空間はありません。
乞食を受け入れない社会になっているのです。
それにしても、曽野さんはドロップアウトした人々がどこに行って、何をしているか知らないのですか。
社会の底辺のことにはまったく関心がないのですか。
確かに、日本の国家の構造は良くできていました。
戦争の反省を踏まえて、国民は守られるものだという社会になっていました。
かなしいことですが過去形です。
それを壊したのが、小泉政権の改革という名の日本解体でした。
(あの、笹川さんの別荘における四悪人の馬鹿笑いほど国民を侮辱するものはありませんでした。只で済むと思うなよと言いたくなりました。)
小泉改革も曽野さんにとっては別世界のことだったのでしょうか。
しかし、早い時期にフクイチの現場を見学して、作業は粛々と進んでいたとのリポートを書いた曽野さんですが、いまその作業員の多くがどういう人たちだか知っていますか。
先日、国立競技場の作業員が過労自殺しました。
23歳の若さでした。
業者が「まれにみる酷い現場だ」と言っていたそうです。
森嘉朗オリンピック組織委員長は作業が1年遅れていると言っていましたから、現場はますます地獄のようになるのでしょうか。
もう、オリンピック関連施設は国立競技場を最後に中止し、オリンピックを辞退、返上してほしい。
国威発揚か何か知りませんが、オリンピックを誘致した人間がわたしは憎い。
また、コンビニ配送員が過労死したという痛ましいニュースもありました。
コンビニの駐車場で倒れたということです。
昼食の時間などなく、運転しながらおにぎりを食べるような毎日だったと。
曽野さん、それでも日本は乞食のいないいい社会だと思いますか。
人手不足がますます深刻になって、乞食をしていられる自由もないような世の中なのです。
むしろ、乞食のいるような世の中の方が人間的な社会なのです。
忙しいと貧しいの究極の選択ですが、わたしなら貧しい方を選びます。
貧しくても、空を見上げることや、風を感じることや、路傍の花に気が付くことができます。
しかし、忙しいとそういう感覚は無くなります。
ロボットに感情はありません。
最悪は貧しくて忙しいことですが、日本はそういう社会になってしまったのではないでしょうか。
×