四日前の産経、曽野綾子さんのコラム「国運を左右する会話力」は珍しくいい記事でした。
夫の介護を人に頼んで二週間フランスのニースに行っていたそうで、コラムはそのときの随想です。
フランス人は、たった今バス停で隣り合った人とでも、初めて入ったレストランの給仕人とでもよく喋るということで、(そんなことはわたしもしている)続けてこう書いておられます。
「ほんのさっき知り合った人とでも話し始めれば、嘘か本当かは別として、その人の「半生」か「三分の一」生くらいはわかる。それは現世の悦楽の一つなのだが、同時に哀しさや寂しさを味わえる機会でもある。
考えてみると会話力というものは恐ろしいものだ。その人の出自がわかる。教養、性格、人生観、くせ、興味の対象などがすべてあらわになる。」
「人と語るのは、多くの場合「ただ」だが、その分、その個人の知識や体験の蓄積が要る。しかし人と語れば語るほどまた多くの知恵を取り込めることを、日本人の、特に若者たちはあまり自覚しない。外国語を喋れるかどうか以前に、語るべく深い内容を持つ人になることが先決だろう。」
会話という人生最高の悦楽、愉楽はもうどこにもありません。
競争社会が進むにつれ、日本人の間から会話が失われていきました。
相手を蹴落とすか蹴落とされる社会で、ほんとうの会話など成立するはずがないのです。
むかしの人は、政治や人生や恋愛を熱く語り合っていたのではないでしょうか。
わたしは経験がなくても、人との会話が人生最高の悦楽だということはいつも脳内で感じています。
だから、空想の中でいろんな人と会話をするのです。
かなしいかな、もうそれは空想のなかにしか存在しないのです。
少し話すだけでその人の教養は大体わかるのですが、では教養とは何かといえば、それは想像力であり、三笠宮殿下が言われた「内省」や「謙虚さ」ではないかと思います。
頭はよくても教養が無いのが上級国民といわれる人種で、そういう人間が日本をどこまでも品の無い国にしています。
会話が成立するには、小沢一郎さんが、相模原の事件を受けて言われたことが基本になくてはならないと思います。
「人間教育の根幹
それは共感力の育成である。
この世には、自分以外に他者が存在し、自分と同様に喜ぶこともあれば、悲しみ苦しむ時もある。
そういう他者の存在を自分と同じように認識でき尊重できること。」
曽野さんの書いておられることは、「その言や良し」ということですが、優生思想、弱者切り捨ての思想の持ち主の想像力や共感力が異常に偏った冷たいものだということは言うまでもありません。
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