きょう、大川小学校の津波訴訟の判決が言い渡されます。
学校側の津波の予見性が最大の争点になっています。
しかし、言い難いことですが、わたしはそれを争点にする遺族側にも問題がなかったと言えるのだろうかと思うのです。
つまり、津波を予見できなかったのは、父兄も同じだったのではないかということです。
地震発生から児童は50分校庭で待機していました。
その待機の大きな理由は父兄が迎えに来るということが前提にあったのでありませんか。
50分とは長い時間です。
おそらく、遺族の胸には、なぜ迎えに行かなかったのかという苦しい後悔があるにちがいありません。
そのどうにもできない苦しさを他に転嫁したい気持ちになるのも自然な感情だろうとは思いますが、、
ところで、「愛とは何か」という命題に、わたしは簡単明瞭な答えを持っています。
見たことはありませんが、よくよく知っています。
体現も実践もできませんが、知っていることは知っています。
それは、自我を抑えて、相手のほんとうの幸せを願うことです。
また強い者、上の者は、弱い者、下の(小さな)者を守ることです。
大人は子どもを守り、国は国民を守ることです。
こう書けば、いまの日本にいかに「愛」がないかは一目瞭然です。
フクシマの子どもは費用がかかり過ぎるということで学童疎開が見送られたばかりか、平気で汚染地に住まわせられています。
そのくせオリンピックには3兆円が見積もられているのです。
いま直ちにしなければならないことが等閑に付され、国威発揚という見栄のためにはお金が湯水のごとく使われます。
これらすべてが大川小学校の悲劇と繋がっているのです。
裁判で争うよりも、みながこころを一つにして反省しなければと思うのですが。
「原発さえなければ」と牛舎の壁に走り書きして自殺した酪農家がいました。
わたしには、胸をかきむしられるような言葉です。
これほど絶望と悲劇を表現した言葉はないのに、ほとんどの人はこころに留めないようでした。
こんな狭い国土に原発があることや、再稼動の動きが加速しそうな現実がわたしには信じられません。
地震列島の、しかも中央構造線の上に建つ伊方原発も簡単に再稼動されました。
総理が責任をもつと言いました。
ふざけているのか!と思いました。
ドゥテルテ大統領が来日し、在日フィリピンの人々の熱狂的な歓迎を受けました。
みんな、大統領が国と国民を愛していることを感じているのです。
日本大好きとか言っている人たち。
どこにも愛のない日本を愛するとはどういうことなのか、わたしには理解不能です。
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