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谷間の百合

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五日 その一  「強がってきた」人間の末路。

あるツイッターで、「文学界」に精神科医の斉藤環さんと石原慎太郎の対談が掲載されていることを知り、雨宮処凛さんのブログでそれにていて書かれたものを読みました。

この対談は、読者にとってかなり衝撃的なものになると思います。」
「石原さんが、生と死の間で葛藤しているとか、自分の衰弱に苦しんでいる、なやんでいるというようなことがあるとは誰もおもっていないでしょうから。」

と斉藤さんは言っておられるのですが、それは斉藤さんにとっても意外なことだったのでしょうか。
わたしは人間である以上当たり前のことだと思います。
世に、強がる人はいても、真に強い人などそうはいないと思っているからです。
「強がってる人間」である石原慎太郎は、世間のイメージに合わせて「強い人間」を装ってきたのではありませんか。
そういう人間が、老いて狼狽えるのは当然です。
自分の中の良心と向き合わず、良心(神)と対話してこなかった人間の当然の報いだと思います。
しかし、世間がそういう人間を作ったともいえるのです。
わたしには、暴言を吐くのも世間からおだてられ囃され、その期待に応えて演じているように見えます。
世間の人気者になったり、先生と崇められるのは身を亡ぼす原因になるということです。
長嶋さん、王さんなどは人格者のように思われていますが、そう思われてるのはご両人には負担であり、さぞ生き辛いことだろうと同情を禁じ得ませんが、それともご本人たちは満足なのでしょうか。


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以下にブログの記事からの抜粋。

対談では、石原氏が「老い」や病(脳梗塞)に直面し、そんな自分を受け入れられずに戸惑いまくっている様子が率直に語られているのだ。
脳梗塞で海馬がダメージを受け、字を忘れたという話になると「斎藤さん、どうしたらいいんですか。こういう日々っていうのは」と尋ね、「自分で自分にイライラする感じ」「自分でこのごろ鏡に向かって言うんだ。『おまえ、もう駄目だな』って」と葛藤を吐露。
既に亡くなった人の名前を出しては「あの先生が生きていたら、すがって相談して迷妄を解いてもらえたと思うんだけど、そういう人が今、いないんだよな」と嘆き、また「いや、若者のつもりで居ても、日に日に老いさらばえていくとね。本当に超越者みたいな人が居たら、すがれたらすがりたいんだけどね」と思いを語る。
そうして対談の最後には斎藤氏に、「今日はお話しできて少しは気が楽になったような気がします。ありがとうございました」


世間だけではなく、息子たちも親を一人の生身の人間として見てこなかったことは石原慎太郎にとってとても不幸なことでした。
縋れるものなんかありません。
縋るよりも人や家族を愛することではないでしょうか。
わたしはそこにしか救いはないと思うのです。


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by michi-no-yuri | 2016-10-05 11:34 | Comments(0)
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