書きたいから、書かずにいられないから人はブログを書くのでしょう。
わたしももちろんそうなのですが、いつごろからか、それだけでは納得できずに、書くことの意味を考え続けていました。
そして、漸く、その答えに出会いました。
答えは、「ワルシャワ・ゲットー」というユダヤ人のゲットーの生活を記録した本にありました。
裏表紙に、こういう部分が引用されています。
「だれもかもが書いていた、、、、ジャーナリストや著作家はもちろんのこと、教師も一般の人も若者もー子供たちでさえ、彼らのほとんどは日記をつけていて、そこには当時の悲劇的な出来事が個人的体験のプリズムを通して映し出されていた。
しかし、こうした膨大な書きものの大部分は、ワルシャワ・ユダヤ人の絶滅とともに消滅してしまった。」
消滅したのは大部分ではなく全滅だったと思います。
奇跡的というより、記録者と同志の命がけの意思によって守られ陽の目を見たのが、「ワルシャワ・ゲットー」の記録でした。
ミルク缶とブリキの箱に密封されて地中に埋められていたのです。
しかし、この記録も「だれもかも」の歴史の証言者になろうとした意思がなければ、まったく性質の違ったものになっていたかもしれません。
この記録は、消滅した膨大な書き手の思いによって結実したものとは言えないでしょうか。
わたしは、そこに、歴史の証言者に連なろうとした「だれもかも」の執念を見ずにはいられないのです。
わたしが何を言いたいか、もう分かってもらえたと思います。
何十年後かに、いまの政治や世相を語る時に、あるブログに脚光が
当てられるかもしれません。
そのブログが歴史を代弁するものであるために、たくさんの人の思いがなければなりませんし、たくさんの人が書かないといけないのです。
わたしの書いたものなどすぐにも消滅する運命ですが、消滅することで、歴史の証言にいささかでも寄与できれば本望ではありませんか。
生半可な知識をもとに、気持ちだけで書いてきたブログにも意味はあったのです。
だから、どうか書くのを止めないでください。
止めてしまったらそれで終わりです。
いつまでこんなことを言っていられるか分かりませんが、やはり、歴史の傍観者になってはいけないと今は思っています。
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