ノーベル賞を受賞された大村智さんの受賞後の講演会場に総理から電話がかかってきたとき、大村さんが電話を受けた係りの人に「あとでかける」と言われた一件をわたしはほほえましく感じました。
大村さんが反権力とか反安倍とかではなく、それが普段通りの自然な対応だったんだろうなと思ったからです。
総理がわざとその時を狙って電話をしてきたのは明らかなのですが、わたしは、そのとき会場から「ウォーッ」という驚きの喚声があがったのが意外というか不快でした。
「エエーッ?!」であってほしかったのです。 (あんな総理から電話をもらってなにがうれしい?)
産経のコラム「日の蔭りの中で」で佐伯啓思さんが、日本人は「近年の受賞ラッシュに便乗して、日本人の知的水準の高さが証明されたかのような筋違いな誇りを持ってしまいかねない」と書いておられますが、たしかにそういう傾向が顕著です。
あの人たちは特別であって日本人一般の知的水準とは関係ありません。
もし、知的水準が高いのなら、号外まで出してお祭り騒ぎをするようなことはなく、静かに受賞者を讃え、静かに喜ぶはずだからです。
佐伯さんは、その内、韓国や中國もノーベル賞をとることを「国策」と位置付けて知的オリンピックの如き扱いにならないとも限らないと書いておられます。
そうなると、国の文教政策は、安直な成果主義や業績主義へと流れ、そこに世俗的な商業主義が割り込んでくるだろうと。
ところで、ノーベル賞授賞者の出身地は西日本に集中しているのですが、その理由として言われてきたのが、東京の官僚主義や出世主義の弊害でした。
この頃あまりこういう表現を聞かなくなりましたが、生き馬の目を抜くような東京の、人も時間もせわしなく流れるようなところで、それに逆行して研究に没頭するのが困難なことは容易に想像できます。
佐伯さんが書いておられるように「真に優れた研究者は、決して今日の性急な成果主義やエリート教育育成のなかで育ったのではない」ということです。
そういうところから生まれたくるのが官僚体質の人間で、はっきり言って、かれらは日本にとって害にこそなれ益になることはありません。
日本はそういう害になるような人間を生み出すための教育をしていると言っても過言ではありません。
どういう環境に優れた人材が育つかについて、佐伯さんは次のように書いておられます。
「むしろ、子供時代にたっぷりと自然に親しみ、好きな読書にひたり、のびのびと自分自身の発見や思考を粘り強く追及できるような環境を与えることの方がはるかに大事だろう。
ある種の美意識や倫理観を養うことは、真に優れた仕事をなしとげる条件でさえあるように思う。」
わが総理に美意識や倫理観が欠けているのはそういうことだったのですね。
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