自己責任について突き詰めて考えたわけではありませんが、わたしには、村八分にされた状態で生きて行くようなイメージがあります。
どこからどこまでが自己責任なのか。
どういう人、どういう場合に自己責任が適用されるのか。
その線引きはだれがするのか。
アイツの場合は自己責任でいいだろうというような風潮をわたしは恐ろしいと思います。
ふとわたしは、ピラト総督がイエスとバラバのうちどちらが死刑に相応しいかと問うている場面を想起しました。
いま、あの人質には自己責任が相当かと問えば過半数の日本人がイエスと答えるかもしれません。
それでいいのでしょうか。
ピラトはユダヤ人の群衆を恐れて、それに屈したともいわれています。
決して、総理をそれに譬えるわけではありませんが、総理は国民を恐れてなどいません。
眼中にさえないでしょう。
総理の頭にあるのは宗主国と支援者だけです。
それがどれだけ異常なことかを知らなければいけないのに、国民は自己責任だ、在日だと騒ぐだけです。
そういう国民に自己責任を問うことの怖さをわたしは言いたいのです。
「自己責任論」は政権を利するばかりではなく全体主義を助長させます。
後藤さんが在日だという情報がネットに広がっています。
しかし、だからどうなんだということは書かないのです。
多分、だから助けなくていいと言いたいのでしょうが、そこまで言わなくても効果は絶大です。
そこを狙っているのでしょう。
わたしはかれら在日の反日感情は理解できても反日行動には強い怒りを持っています。
ついには日本の中枢まで浸食したかれら在日の悪業は決して許すことはできません。
しかし、最初に「因縁」をつくったのは日本です。
問題を複雑にしてかれらを叩く材料にしてはいけません。
それとこれとはまったく別の問題なのです。
正々堂々と批判も抗議も戦うこともしてこなかったくせに、時流に乗って群れ、ヘイトスピーチをしている日本人?ほど醜いものはありません。
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