パリ市民が「言論の自由を」「わたしは恐れない」と口々に叫んでいるのを、わたしは遥か遠い地点から聞こえてくるような感覚で聞いていました。
実際、パリは遠いのですが、わたしが遠いと感じたのは、もちろん距離ではなく、自由への思いに対する彼我(ひが)の違いでした。
日本人にとって民主主義も自由も切実な問題ではないのです。
言論の自由に抵触するような事案、事件が起きても、それに抗議するのはほとんどが一部の進歩的知識人であり、そういう人たちは「左翼」で「反日」だというのが一般人の見方だったように思います。
それが今極限に達したようです。
政権に逆らうものは、天皇といえども左翼になるという前代未聞の珍事が起きているのですが、それが珍事ではなく当たり前になっていくことの恐ろしさをどれだけの人が感じているでしょう。
いまの若い人たちの中には、政治に関わることは危険というより「損」だという考えがあるようです。
しかし、政治ってなんですか。
わたしたちのいのち、生活そのものではありませんか。
黙っていることが利口な生き方だと、空気を読み、口を噤んでいるうちに、気がつけば戦場にいたということになるかもしれないのです。
これは言論の自由、報道の自由へのテロであり、断じて許すことはできない
と総理は言いました。
わたしは涙がでそうになりました。
どれだけその言葉を信じたいことかと、、
しかし、言うまでもなく、政権から日々感じてきたことは、言論の自由への侮辱であり敵意でした。
戦い取ったものではないから、マスコミは自ら言論の自由を放棄してもなんの痛痒も感じないようです。
嬉々として?権力に靡きました。
きのう、ある記事に、改憲の真の目的は国民から主権を剥奪し、それを国家権力の下に取り戻すことだ、それが日本をトリモドスということだと書いてありました。
恐ろしいことですが、たしかにそういう動きになっています。
政権周辺のひとたちがよく言う「誇りある日本人」ってどんな日本人なのでしょう。
わたしは一人の誇りあるというか、誇りをもって生きたいと願っている人間だからこの政権に堪えられないのです。
国民を舐め切っているその侮辱に堪えられないのです。
わたしは「わたしは恐れない」と堂々と言うことができません。
「怖い」「恐れない」という二律背反の葛藤を感じない日はありません。
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