NHKのアーカイブス「 原爆の絵~悲劇を語り継ぐために~」を見ました。
28年まえの最初の募集には2200枚、12年前の再募集には800点の応募があったそうです。
ほとんどの人が絵などそれまで描いたこともなかったことが歴然と分かる拙い絵がほとんどでした。
それでも描かずにいられなかった気持ちが、絵以上に原爆の悲惨さをわたしたちに教えてくれます。
その人たちを突き動かしたのは、あの地獄の様相をなんとしても伝えたいという使命感と、生き残ったことにたいする贖罪感だったのかもしれません。
それでもいくら描いても描いても伝えきれないもどかしさに苦しんでおられる様子が絵からも伝わってきます。
今回初めて見たのが、川の中に浮かぶ大勢の人間の遺体に混じって何頭もの馬と犬などの死体が描かれていたことでした。
馬も犬も水を求めて、人びとといっしょに川に飛び込んでいったことを想像すると、原爆の悲惨さがよりリアルに感じられるのが不思議です。
当時、馬も犬も日常の生活圏にいて、とくに子どもたちにとってはかけがえのない存在だったことを思い、世界が瞬時にして日常から非日常に転換したことの衝撃がリアリズムをもって迫ってきたのかもしれません。
どのような言葉でも言いつくせないほど痛ましいのは、小学校に上がったばかりの子どもが倒壊した校舎の下敷きになり、生きながら炎に包まれてひとりで死んでいったことです。
幼児を胸に抱きかかえうつぶせで黒焦げになっていた母子の絵が何枚もありましたが、わたしは親子がいっしょに死ねたのはせめてもの救いのように思いました。
いつも不思議に思ってきたのが、だれの口からも原爆を投下したものへの呪詛の言葉が洩れてこないことです。
その罪を問う声を、すくなくともわたしは聞いたことがありません。
すべての思いが、阿鼻叫喚の地獄の中で死んでいったものの上に注がれ、それが70年たった今も変わることはなく、涙が枯れることはありません。
広島にアメリカの調査団が入ってから、日本の行政や医師たちは口も手も出せなくなったそうです。
当時の空気を知ることはできませんが、やはり人々は占領軍を恐れて口を噤んでいたのでしょうか。
そして、広島の人々も知らず知らずのうちに「言ってはいけない」ことだと自己規制していったのかもしれません。
(民族性も少しは原因しているのかも、、)
あらためて、あらためて思うのは、原爆を投下したことの罪の深さです。
しかし、わたしはだれにその罪を問えばいいのか分からないのです。
なぜなら、人間にできることではないと思うからです。
もしかしたら、広島の人々もそう思っておられたのかもしれませんね。
×